『天国大魔境』8話 藤田春香さんのコンテワーク

『天国大魔境』8話は藤田春香さんコンテ回でした。京アニを出てから初のTVシリーズコンテです。

演出処理は別の方なので、どこまでコンテ指示なのかはわからないですが、気になった演出を振り返ってみたいと思います。

演出による「冷たさ」と「暖かさ」

このエピソードでは死への道筋が怪物になることしかない星尾を、人のまま死なせることがマルとキルコの目的地になっていますが、そこには命を絶つという「冷たさ」と、星尾の希望するように最後を迎えさせるという「暖かさ」が同居しています。

演出上でもこの「冷たさ」と「暖かさ」の表現が要所となるところで見られました。
特に「冷たさ」の部分は今までの藤田さん演出においてあまり見られない鋭さがあったように感じました。

原作も読んでいるのですが、このエピソードはコマ割りにも捉われず、アニメ独自の演出が非常に多かったです。

光による境界線

「冷たさ」の演出として如実だったのは、光による境界線です。
本話数では演出における境界線が度々でてきますが、特に陽の光による直線影の存在感が強く、画面内のものを明確に区切る場面と、「区切られたものを渡る」という行為を印象付ける場面で使われていました。

「区切る」意図が顕著だったのは星尾の関連の演出で、空と星尾を区切る演出が多々ありました。

「最後に空が見たい」と訴える星尾ですが、空と星尾は幾つもの境界線によって区切られています。一つ目は星尾が眠る部屋と廊下に出るまでの境界線で、その境界線は空から降り注ぐ陽の光によって作られていました。キリコ達がいとも簡単に踏み込める陽の光の側に、星尾は自分でたどり着けない。「もはや人間には戻れない」ということを突き付けているかのような陽の光が、本来暖かな表現でありながら「冷たさ」の象徴のようになっているのが見事です。

 

マルとキルコ、宇佐美の3人によってようやくたどり着いた空の下でも、星尾がいるのは影の中です。陽の光を浴びることを身体的な事情から避けているのかもしれませんが、空を仰ぐことができても日の下には降り立てないという、明確な境界線のように感じました。これが空と星尾を分かつ二つ目の境界線になっていて、ここを越えられない星尾の待つ先は、このまま死を迎えることなんだ、という冷たい最後通告のような境界線、といったような感触を受けました。

 

冷たさの一方で、光の境界線を越えるという行為が暖かさを感じさせる演出もありました。

終盤で宇佐美がビルの中へ入っていくところでは「陽から陰」へ境界線をまたぎます。これはこのあと宇佐美が自死を図ることの示唆だと思うんですが、それだけだとネガティブな示唆としての演出だと思うんです。ですが、本作の「生まれかわり」を示唆する展開や、星尾が影の中で死んでいったことを考えると、宇佐美を星尾のもとへ導いてあげるような、もしくは二人の間にあった境界線*1を絆すような、そんな「暖かさ」の演出のように感じました。

星尾と宇佐美の最期は拭いようがなく冷たい悲しさがあるのですが、二人を静かに近づけてあげるような、若干の救いを感じる境界線だと思います。

カラスというモチーフ

もう一つ「冷たさ」と「暖かさ」を含んでいた演出としてカラスというモチーフが印象に残りました。

カラスというモチーフは、本エピソードにおいて「死」とマルの存在を意識させるモチーフでした。マルたちが星尾のもとへやってくる冒頭のシーンのさらにその前、このエピソードの1カット目から登場することから、星尾の死を運んでくるマルの存在を意識させていました。

更に印象的に使われていたのは、宇佐美の死を見守るかのようなカラス。
銃声を聞いて宇佐美のもとへやってきたマルは「自分が死をもたらす」と嘆くことになりますが、それを象徴するかのようでした。マル(=カラス)のいるところに死がある、というような、そんなモチーフ演出だったと思います。

いずれも「死を連れてくるマル」という印象付けによって、マルの存在を冷たく突き放す演出だったと思います。「影」という演出とともに、死を連想させるシンボルでもあるカラスを使うという、ストレートなメタファーが厳しくマルを責めているような気もしました。

ただ、このエピソードにおいて「空へ飛び立つ」という行為は、星尾の願いが「空を見る」ということもあって、どこか前向きな印象も受けました。
宇佐美が自死するシーンでは銃声とともにカラスが飛び立つわけですが、いわば現世から解放されたかのようにも感じます。悲哀はあれど救いがある、演出上での「暖かさ」です。

光の境界線とカラスというモチーフには、「空」という共通点があり、どちらも星尾と宇佐美の行き詰った状況の演出として使われていました。
しかし、その状況からの脱出と星尾の「空を見る」という願いを前向きな演出に活かすことで、「悲哀のなかにある小さな救い」を暖かく掬い取っていました。

上述した演出は原作では使われおらず、原作を意識したカット割りもあまりありません。藤田さんのコンテワークによる二つの温度を併せ持つ演出だったのだと思います。

藤田さん演出の「冷たさと暖かさ」を振り返る

藤田さんの演出において、「冷たさと暖かさ」の両方を感じさせるものがいくつかあります。

例えば『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』2話。

終盤のシーンではエリカが自動手記人形としての自信を失いかけている中で、ヴァイオレットの自動手記人形を続けたいという純粋な気持ちに向き合うことで「冷めた感情」に光が差します。
『天国大魔境』8話でも使われた直線影を、ここではシンプルに、肯定的な意味合いで使っていました。雨に濡れたことで冷たい青色がエリカを包んでいますが、そこに降り注ぐような陽の光がエリカに「暖かさ」をもたらす、という意味でも「冷たさと暖かさ」の両方を感じる演出でした。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝- 永遠と自動手記人形 -』ではイザベラとテイラーの過去に「冷たさと暖かさ」がありました。貧しいながらも二人でいられることに喜びを感じている二人の「悲哀のなかにある小さな救い」にスポットがあてられ、「冷たい世界」で握る「暖かな手」の演出が随所にありました。
イザベラとテイラーが握る手はもちろん、女学校で病に伏したイザベラの手を握るヴァイオレットの手は、機械でありながらぬくもりを感じる手としての演出でした。

鳥かごを想起させる女学校や上流社会での生活と、終盤のテイラーから手紙を受け取って空を仰ぐイザベラのシーンは、『天国大魔境』8話でも使われた鳥のモチーフ演出に近いです。

 

直近の藤田さんのお仕事だと、MV『白雪』も「冷たさと暖かさ」の両方を感じるものでしたね。二つの種族(?)が心を通わせる「暖かさ」はあれど、どこか刹那的な関係性を感じさせる表情の「冷たさ」。暖かい笑顔ではなく、悲しみを含んだような複雑な笑みに、シンプルなハッピーエンドにはさせない演出上の「冷たさと暖かさ」を感じさせました。

ただ、今までの藤田さんの「冷たさ」には美しさがありました。「冷たさ」の裏に隠した藤田さんの登場人物へのエールのような、登場人物が立つ世界の美しさ、と言うのが正しいでしょうか。構図や背景、撮影処理…どこかにその美しさがあったわけですが、『天国大魔境』8話は「冷たさ」を映すカットは容赦なく冷たかったです。その後に救いは描けど、境界線の演出なんかは絶望にも近い演出でした。

そういった意味でも、『天国大魔境』8話は今までの藤田さんの演出とは一味違うエピソードだったと思います。

 

『天国大魔境』8話のコンテワークも見事でしたが、次回作は演出処理もやって「藤田春香演出の今」を見られることを期待したいです。

*1:二人が光によって二分されることはありませんが、星尾が伝えた「ありがとう」の上を流れる宇佐美の涙はディスプレイによって分かたれているんですよね。紙に記した言葉であれば涙が滲むのですが、ディプレイではその表面を伝うだけ、というのが二人の境界線のように見えました。