『最終楽章 響け!ユーフォニアム』後編 小川太一さんはどう「紡いだ」のか?

監督の小川太一さんは、本作のパンフレットで「紡ぐ」をテーマにしたと語っています。
この「紡ぐ」という言葉は、パンフレットに何度も登場し、舞台挨拶等でも触れられています。

では、小川さんはどう紡いだのか。
その答えは前編から積み重ねた、桜、雲、そして「託す」「託される」という関係性の演出にあったと思います。

「桜」・「雲」・「託す、託される」演出。

桜は、前編冒頭に印象的なシーンがありました。


久美子に部長を託し、卒業していく一学年上の先輩。回想シーンにはテレビシリーズの既存カットに挟まれて、桜のつぼみのカットが新規カットで挿入されています。このカットのコンテにはこのような端書がありました。

つぼみの桜 わずかに開く ゆれ始めて次CTと繋ぐ感じで*1

続く物語としての桜、という意味に加え、世代の入れ替わりのニュアンスをかすかに滲ませていました。

次のシーンでは、久美子のもとへ桜の花びらが落ちてきます。落ちてきた花びらは久美子から奏へ。
物語の始まりでありながら終わりを感じさせる演出が、先ほどの桜のつぼみのカットも相まって、とても印象に残りました。新学期、最上級生、部長という役割…新たに始まったことはたくさんあれど、終わりを感じさせる3年生という時間。久美子と奏のなにげない会話が、後編を見た後にはかけがえのない時間だったんだと、改めて気づかされました。

そしてこのカットが新規カットで小川さんが描写しているところに、桜というモチーフを積み重ねる明確な意図を感じました。

後編での桜は、終盤で受け継がれる「響け!ユーフォニアム」のシーンで描かれていました。後編のとても大事な描写の中で、前編と重ねるような桜のつぼみや、時間経過の演出によって桜の木が成長していく描写がありました。
春を過ぎれば、桜の花びらは散ってしまいます。しかし、散っては咲き、散っては咲く。高校生活や部活動という非常に短い時間であっても、確かに積み重なっていくものがある。前後編を使って積み重ねられた桜の演出は、その「積み重ね」を強く訴えるものがありました。

雲も桜と同様、前編冒頭から印象に残るモチーフです。

前編冒頭、久美子が「響け!ユーフォニアム」を演奏する間、校舎やその周辺が点描で描かれます。一つ一つのカットを楽曲と併せてゆったりとした時間で描いていました。

ここで個人的に気になったのは、「雲の流れ」です。
ゆっくりと流れる雲はリアリティの追求、という意図もあるかと思いますが、直前に描かれた回想によって、時間の移ろいを意識させられました。この雲の流れはCGや撮影セクションのアイデアではなく、コンテ段階からト書きに書かれていました。

雲ジワSL(よく見ると動いているくらいのニュアンス)*2

このカットのみならず、前後編で空が大きく映るカットは、ほぼすべてのカットで雲がゆっくりと流れています。コンテからのアイデア、かつ徹底された演出ということを考えると、雲の演出が小川さんの中でいかに重要な要素だったのか、というのが見て取れます。

それを踏まえると、後編の自由曲メドレーで描かれた入道雲からは「雲はいずれ流れてしまうが、積み重ねられていくものもある」という力強いメッセージを受取りました。
空に厚く重なる入道雲と、今までの北宇治高校吹奏楽部メンバー。遠くにありながら、確かにその存在を感じる大きさ。
自由曲メドレーのここぞというところで描かれた入道雲は、空の青さと雲の白色のコントラストがとても力強く、心にグッときました。

桜や雲に比べると直接的ではありますが、「託す、託される」演出を印象付けていることにも注目したいです。
前編では、久美子が託される側であったことを強調していました。

あすかからスコアノートを、一つ上の世代から幹部ノートを。託される物の差こそあれ、積み重ねることで託された久美子を印象づける演出でした。

滝先生から部室のカギを渡されるカットも印象的でした。
滝先生のオーディション結果に納得ができない久美子。いつものように北宇治高校吹奏楽部を託そうとする滝先生。それを受取ろうとして、久美子の手が下がる。いつもの動作から逸脱し、本心を漏らすという構図を作り出していました。
滝先生の答えに納得して飴を受け取る久美子は、滝先生から教師としてのみならず、北宇治高校の目指す場所を託される側として存在していました。

そして後編。北宇治高校を卒業する久美子は、あすかから託されたスコアノートを奏に託します。先に挙げた「託す・託される」のアングルで描くことで、単なる久美子から奏へのバトンタッチではなく、今まで積み重ねてきた「託す」をまとめて渡しているようにも映りました。

「託す・託される」という構図自体は珍しいものではありませんが、奏に託されたスコアノートがより一層特別となるような、そんな伏線的演出が本作にはありました。

「石じゃないよ。人だよ。」

雲や桜は、終わりを示すモチーフとしても使われます。
本作にもそのニュアンスがありますが、小川さんは、その終わりを「失われること」だけでは終わらせませんでした。モチーフに積み重ねられた想いを映すことで、消えていくものの先に、次へと続いていく繋がりを見せました。「託す・託される」演出は、それを明確に提示したものだったと思います。

また、滝先生は生前の妻に、高校で吹奏楽を教えるのは「賽の河原に石を積んでいるようなものじゃないか」と語ります。しかし妻は、「石じゃないよ。人だよ」と答えます。
このシーン自体はテレビシリーズから存在していたものです。しかし小川さんは、この言葉を本作の様々なモチーフに仮託してみせたのではないでしょうか。

いずれ雲は消え、桜は散る。三年間を終えた部員も、北宇治を去っていきます。
積み重ねたものは、いつか姿を変えます。それでも、それは無駄になるわけではありません。人である彼らは、次の誰かによってその足跡を残していくのだと思います。

小川さんが積み重ねてきた演出によって、「石じゃないよ。人だよ。」という言葉は、自由曲メドレーや「響け!ユーフォニアム」という音楽となって紡がれ、さらにその音楽は、北宇治高校吹奏楽部のこれまでと、これからの軌跡を描き出しました。
説得力のあるモチーフ演出の後に映し出された音楽と映像は、あまりにもエモーショナルで、あまりにも鮮やかでした。

紡がれたもの、積み重ねたもの。

本作は、3期の総集編という側面を確かに持っています。しかし、小川さんによって再編集され、新規カットによって肉付けされたこの「総集編」は、もはや単なる総集編ではありません。
そこには、時間とともに積み重ねられてきたものを、人から人へと受け渡し、過去から現在、そして未来へと紡いでいく、小川さん自身の演出がありました。テレビシリーズとも少し異なる、小川さんなりの演出とも言えます。

もっとも、「紡ぐ」というテーマそのものが、小川さんだけのものだったわけではありません。久美子が三年生になった時点で、これまで描かれてきた出来事や人間関係は、すでに物語としてつながっています。これまでの物語を振り返れば、そこに「紡がれてきたもの」を見出すことはできるでしょう。

だからこそ、小川さんの「紡ぐ」は、過去と現在をただ結び直すことではなかったのだと思います。
前編で桜や雲、「託す」「託される」という仕掛けを積み重ね、それらを後編で時間の流れとともに回収し、一つの意味へと変えていく。その「積み重ね方」こそが、小川さんにとっての「紡ぐ」だったのではないでしょうか。

*1:ソフト特典の絵コンテ集25ページより。

*2:同上6ページ。

『最終楽章 響け!ユーフォニアム 後編』舞台挨拶(2026.9.12 新宿ピカデリー)に行ってきました。

ついに公開された『最終楽章 響け!ユーフォニアム 後編』。いろいろ書きたいことはあるんですが、先に舞台挨拶のレポートから。

今回は15時20分の上映後挨拶回と18時55分の上映前挨拶回の両方に顔を出せました。

いずれも登壇者は原作者の武田綾乃さん、石原総監督、小川監督。司会進行がポニーキャニオンのプロデューサー。

〇上映後挨拶回

―後編が公開され、作品を作り終わった今の気持ちは?

小川 感無量というか、ありがたい気持ち。

石原 感情的なこととしては、「ユーフォロス」みたいな気持ち。一つの時代が終わったしまった、というような。ある意味で怖い感じ。仕事的にはここまで続けられてよかったという気持ち。黄前先生が救いだよね。今もあの人は忙しくしてるのかなとか思えるから。

小川 そこ(3期で黄前先生を最後に登場させたのは)石原さんのホスピタリティですね。

石原さんは本作でラストの自由曲メドレーのコンテもやられてますよね。

石原 小川監督からたくさんリテイクをもらった。最初は久美子に寄り添いすぎてしまってた。

小川 石原さんには自由曲メドレー、OPコンテをお願いした。自由曲メドレーのコンテは長年ユーフォに携わってる石原さんだからこそ描けたコンテだと思います。

石原 彼(小川監督)は「紡がれること」にこだわってて、それに関するところを直した。最初はテンポの速いカット割りにしてたら「もっとカット減らして」って言われて直したり。

小川 でもそのあと「やっぱり増やして」ともお願いしてたり…。石原さん特有のテンポ感を直してしまったところもあって。

―シリーズを完結させるうえで意識したことは。

小川 いろんな作品を作ってきて、「テーマを決めることが大事だ」と思っていて、「繋ぐ」から「紡ぐ」、というテーマは意識していた。あとは「タイトルを回収したい」と思ってた。なにが「響け」でなにが「ユーフォニアム」なんだろうと考えたり…

武田 哲学的ですね。

小川 「わがまま」とかもそうですね。言葉ではなく感覚で理解してもらうにはどうしたらいいだろう、と。本来「わがまま」ってネガティブなイメージじゃないですか。でもこの作品ではプラスに感じる。それをどう伝えるか、というのをテレビシリーズを作ってる時から思っていた。

後編はどのような作品になったか。

石原 小川くんが締めたことで、長くみなさんの心に残るものになったと思う。

―後編では真由をたくさん描いているが。

小川 もしかしたら原作や3期とイメージが違っているかも、と思われるかもしれないが、自分はそう思っていない。真由は久美子の合わせ鏡みたいな存在。何かを与え、与えられる。そういうところからノートを渡すための構成を積み上げていった。

文化祭の選曲については。

小川 前編と同じで楽しませる音楽を、と思っていた。いろいろ候補はあった。ユーミンとか。コンテ作ってる時もギリギリまで選曲は悩んだ。コンテの都合で音楽を編集してもらったところも。

―お気に入りのシーンは。

武田 昭和喫茶がよかった。

小川 あれは脚本の花田さん案。小川からはなんでもいいと言っていたけど、昭和喫茶になってた。キャラは池田さんのデザインだけど、スケバンは花田さんの脚本からすでに書かれてた。真由のデザインは悩んだ。実はつばめとおそろいのデザイン。

―『届けたいメロディ』を意識させるシーン*1もあったが。

小川 特別踏襲しようという意識的にはなかった。OPのところはこうだよなっていうイメージがあった。終わり方はすごく悩んだ。そういう時、テーマが大事。「紡ぐ」がどうあるべきかというのを考えてああいう終わり方にした。

―自由曲メドレーはどういう経緯で作られたのか。

石原 前編が要因になってるよね。

小川 前編で「一年の詩」をフルでやったから、後編はどうしようか、というところから始まりましたね。

石原 作品の構成を考えると、普通はサンフェスが前半の終わりになるけど、そうはしなかったからね。

―花田さんの脚本では自由曲メドレーのところはシンプルに書かれてましたね。

小川 前編やる前からメドレーというアイデアはあった。花田さんからも提案されたけど、自分はメドレーってあんまり好きじゃない。でもメドレーではなく、一本の音楽として作り上げれば…と考えたとき、勝算が浮かんだ。あとは鶴岡音響監督からもウルさいから意見を聞いて(笑)。鶴岡さんもいいんじゃないって言われて、スタートを切った。メドレーは自分の掲げたテーマ(紡ぐ)とも一致してる。でも足踏みもしてた。やっぱり大変だと思ったから。音楽の松田さんが作ってくれて、それのおかげでやれるな、と思った。

―好きなキャラクターは。

武田 みんな好きですけど、後編ではやっぱり奏ですね。

小川 まんまとハマりましたね(笑)

原作にもなかった真由とのシーンなんかもありました。

小川 奏と真由のシーンは、あれで真由が完成したんじゃないかって思えた。絶対に後編で入れたいと思ってたシーンだった。

 

〇上映前挨拶回

―作品を作り終えて。

小川 まずは感無量という気持ち。そう思えるような気持ちで作ってた。

石原 シリーズを作ってるときも毎回「これで終わり」と思ってやってるけど、その都度プロデューサーが続編の話を持ってきた。でも今回は本当に終わり。パカッと空間が空いたような、そんな感覚。

―どんな思いをもって後編を作ったか。

小川 この作品が先々自分の中で続いていくような作品になれたら。ずっと残響が残る作品にしたい。作品のコンセプト出しをやってたころは、そうペラ一枚に書いたこともあった。

―石原さんは総監督としてどんな仕事をしたか。

石原 小川君がコンテにつまづいたときの相談役。あとはずっとタイムシート直してた。一か月くらい。長く演出処理やってた。

―小川監督は石原さんに助けられたエピソードはあるか。

小川 具体的なエピソードは浮かんでこないけど、いろいろ助けられてますよ。それこそ自分からすれば演出のキャリアが段違いですし、レジェンドです。石原さんが総監督でいることに安心したり、意見を聞いたりできるので助かってます。

―後編の作業を進めるにあたり、スタッフにはどんな話をしたか。

小川 「紡ぐ」とはどういうことか、というのは言葉の限りを尽くして説明した。「紡ぐ」って口に出すと恥ずかしいけど、恥ずかしがらずに面と向かって、向き合おうと。

石原 打ち合わせのときも今言ったことそのままの内容で話してたね。

―後編はどのように作られたのか。

小川 前編は自分で、自分なりの構成をして作った。後編は花田さんの脚本が軸。そこから編集して、前編との整合性をとったりした。

―小川監督は本読みのとき、A3用紙に出力しても読みづらい文字で資料を作ってきてましたね。

小川 アイデアマップですね。大事なものはなにか、というの共有したくて見せたけど、作ったのをそのまま見せた感じで分かりづらかったかも。

―新規シーンの入れ方はどのようにして決めたのか。

小川 「ここを」というよりか、どういう話にするかという組立ての中で必要に応じて入れていった。最初はなめてかかってた。前編は3期10話までやったから後編は3話分だけだし、余裕で尺入るな、と思っていたけど、そうはならなかった。

―約2000カットある後編ですが、新規カットは1060カットある。

小川 半分以上ですからね。

―小川さんが響いた石原さんの言葉はありますか。

小川 そういう言葉はなかったですけど…あえて言うなら石原さんの生き様そのものじゃないですか。たまに「石原さん!(怒)」みたいなこともあるけど、これは石原さんじゃないとダメだって時もある。石原さんは良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把。でもそれが大事なこともたくさんある。

―逆に石原さんが響いた小川さんの言葉は。

石原 直接的にはないけど…。僕は大雑把だけど、小川君はきちっとしてる。コンテを全編Vコンテ作ってたり。見習いたいと思ってる。

―原作を書くとき、アニメに影響されたことはあるか。

武田 1巻はエンタメっぽく書いたけど、2巻以降は純文学っぽい書き方をしてる。その中で、小説では久美子が人の足を見る描写が多い。これは久美子の目線が下を向いていたから。この描写は徐々に減っていくけれど、これは久美子が前を向いたから。そういうのはアニメの影響かもしれない。

小川 アニメも逆にそれを受けて作ってたりしてますよ。久美子の主観で物語の転換点を作っていたりするのは原作の影響だと思う。

石原 今までの作品作りは原作をもらって、それで作ってたことが多い。でもこの作品は同時進行だった、というのもある。

―後編の注目ポイントは。

武田 文化祭ですね。アニメの文化祭、かわいくて好きです。

小川 演奏ですね。劇場でしか感じられない音響を感じてほしい。

石原 (唐突に窓からこっそり見る覗き見るジェスチャー)。(奏の)窓ひょっこりですね。『誓いのフィナーレ』とリンクしてる。個人的に好きなシーンです。ほかにも今までのユーフォの思い出が詰まった場面が多いです。

 

以上。

ポニーキャニオンのプロデューサーさん、面白いパス出しててグッジョブでした。

―『届けたいメロディ』を意識させるシーンもあったが。

小川 特別踏襲しようという意識的にはなかった。OPのところはこうだよなっていうイメージがあった。終わり方はすごく悩んだ。そういう時、テーマが大事。「紡ぐ」がどうあるべきかというのを考えてああいう終わり方にした。

ここはちょっと意外でしたね。もともと踏襲する意図がないとああはならないと思ってましたが。

締めの挨拶で石原さんが「今年で60歳。ユーフォが始まったころは40代だった」って話をしていて、なんだか勝手に感慨深くなったりしました。よくぞここまで作ってくれました。そして石原さん、いつまでもお元気で…!

 

*1:冒頭、幼少期の真由がユーフォと出会った場面は『届けたいメロディ』で描かれた幼少期のあすかを彷彿とさせたり、ラストの「響け!ユーフォニアム」を吹いて笑いあう奏と久美子が『届けたいメロディ』ラストカットのあすかと久美子と同じだったり。

山村卓也さんの「窓」の演出。

ここ最近、山村卓也さんの演出回は「窓」の演出が素晴らしいです。

窓を使った演出は特段珍しいものではなく、むしろ定番とまで言えるかもしれません。ただ、山村さんの演出回は窓のそばにある感情の描き方が素晴らしく、また、印象に残るものが多かったです。

「面影」としての窓。

山村さんが演出された『ツルネ -つながりの一射-』12話、『響け!ユーフォニアム3』4話、『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』8話は、いずれも亡き人物の面影を窓に仮託する演出がありました。

『ツルネ -つながりの一射-』12話では、湊の亡き母の面影に触れるような窓がありました。

階段を上がってすぐの廊下。母が好きだった弓道を志し、練習を繰り返しているうちにできた床の跡。その目の前にあったのは、小さな窓でした。自室の大きな窓ではなく、廊下の小さな窓によって演出しているのがとてもよかったです。母との繋がりに姿形はなく、窓の小ささが繋がりの限界にも見えますが、差し込む光の力強さやまぶしさが、形には残らない絆の強さを想起させてくれます。

湊を見つめる父の後ろ姿もグッときました。湊の成長を通して妻の面影を感じる風景。その奥には強い光が注ぐ窓がある。湊の成長、母(妻)の面影、家族の繋がり。そのすべてを照らす、小さな窓からの光。シリーズを通して描いてきた「繋がり」の演出のひとつとして、原点の面影へと繋ぐ「窓」の演出。とても心に刺さりました。

『響け!ユーフォニアム3』4話においても、求の亡き姉との記憶の中に窓がありました。

思い出の景色として、光差す窓際の風景を印象付けたうえで、淡いコントラストによる寂寥感の滲ませ方が見事です。

 

久美子に過去を打ち明けることで前を向き始めた求。閉じ込めていた思い出の景色から、埃を払ったかのように色味を取り戻す窓の景色。懐かしさと暖かさを感じる光の柔らかさが印象的です。その一方で、空間の広さが切ない感情を残しているのも素晴らしいです。そこにある光や空間が、求が姉を思い出すときの心象風景にもなっていて、面影を思い出すときの求の感情に寄り添う演出でした。

姉との思い出の風景として描かれるのが窓際の風景だけ、というのもまた良かったです。姉とは他にもいろいろな思い出があると思うんですが、求の中に強烈に残った風景として窓と椅子、そして差し込む光があった…というような、求の主観的な感情に迫った演出として機能していました。

先日放送された『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』8話では、亡き兄・清六の在りし日の面影を窓から注ぐ光によって叙情的に映し出していました。

書籍の前に座り込み、熱心に目を這わす清六。その場に熱意を宿した清六を描くうえで、小さな窓の向こうの光が時間経過演出に一役買っています。そしてそんな清六の姿を映した後に映される、だれもいなくなった窓からの光。

単なる窓に縁どられた陽光ですが、「清六が長い時間を過ごした場所」という伏線を敷くことで、居なくなった清六を想起させる純朴な寂しさがありました。前回も取り上げましたが、『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』には美術背景による切り札的演出があります。しかし、ここではインパクトのある技を使わず、窓でできた影とオレンジ色の空間を映すだけ。だからこそ優しく溢れる寂しさ。山村さんの演出の巧さを感じました。

偶然かどうかはわかりませんが、ここ最近の山村さん演出回は「近親者の死」にスポットがあたることが多いです。それぞれの人物にとって強烈な出来事ですが、山村さんはカメラを通して、その面影を優しく映し出していました。
「悲しみ」よりも「寂しさ」にフォーカスするような面影の演出。その肝となるのが、「窓」の演出。「窓のこちらと向こう側」のような別れや死を意識する境界線的な演出だけではなく、注ぎ込む光によって亡き人の面影や繋がりを描いているところに、私は優しさを感じました。

私の好きな山村さんの「窓」演出。

今回「窓」と「近親者の死」っていう共通項があったので取り上げてみたんですが、以前から山村さんの窓の演出は印象的なものがたくさんありました。

例えば『響け!ユーフォニアム2』10話。Aパートラスト、家を出ていく姉のことを想いながら、久美子が涙するシーン。

電車の窓から眺めるいつもの景色。ぼんやり見つめながら考える姉との思い出と、変わる今。ありふれた景色の中でふと思い出す大切な記憶…というシチュエーションの作り方が、まず心に刺さりました。
久美子へ窓から注ぐ光がスポットライトのようになっていて、久美子だけが持つ、かけがえのない感情を照らし出しているような構図が本当に素敵でした。

Aパートラストカットを車窓越しに映る太陽で締めているのも好きなカットのひとつです。当然のように自分を見守ってくれていた存在に、改めて気づいた久美子と重ねる演出。窓の汚れに少し霞んだ景色の説得力。美しい風景ではないからこそ、心にスッと入ってくるような窓の演出でした。

面白いな、と思ったのは『響け!ユーフォニアム』10話『響け!ユーフォニアム3』7話


『響け!ユーフォニアム』10話の晴香が自分を鼓舞するシーンは、窓からあすかと香織を見下ろす構図になっていました。自由奔放な副部長とソロパートに集中する友人を見て、少し離れたところから、普段こぼさない本音を落とす窓の演出。

一方『響け!ユーフォニアム3』7話。夏紀が差し入れしたアイスを後でこっそり持っていく奏と、それを見下ろすユーフォ先輩コンビ。少し離れたところから、普段夏紀の前では見せない奏の本音を垣間見る窓の演出。同じ構図で、「普段見せない素顔や本音」という共通点を窓という舞台装置が強調させるような演出となっていました。
ちなみにこのシーンは、シナリオでは「校舎裏」という設定でした*1。1期10話と同じ部屋となっているのは脚本段階ではなく、コンテ段階の可能性が高いです。山村さんのセルフオマージュ的窓演出。


 

少し横道にそれましたが、最初にも書いたとおり、「窓」の演出は山村さん独自の演出ではありません。窓から光が差し込む、という構図もたくさんあると思います。

しかし、山村さんの窓の演出にある、心の奥底にある感情を掬いあげるような優しさは特筆すべきものだと思います。

そしてここ最近の演出には、心の奥を小さく揺さぶるような「優しい寂しさ」があるような気がしています。

*1:「『響け!ユーフォニアム』シリーズ 公式シナリオブック 下巻」223頁。

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』、美術背景の「ボカし」表現。

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』の美術背景は、放送開始前より注目ポイントの一つとして公式HPでも触れられていました。
和の世界と煙が入り混じるスチームパンク。世界観の作りこみが見事で、背景に目を惹くカットもたくさんあります。

しかし、本作の美術背景の素晴らしいところは単なる作りこみだけにとどまらず、あえて「ボカし」の表現を取り入れているところだと感じました。

今回はそんな「ボカし」の表現をいくつかピックアップしてみたいと思います。

輪郭がボヤけた背景たち。

「印象派絵画を思わせる挑戦的な美術背景」。
公式サイトのトップページにある本作の宣伝文句ですが、実際に描かれている背景においても、印象派のような光の移ろいや映り込みが多く見られます。輪郭がボヤけた、やわらかなアウトラインも特徴的です。

また、それぞれの境界線があいまいであることが、それぞれの存在感にも繋がっているように感じます。
例えば木造の住宅、土と草の地面。それぞれは独立した存在ですが、実際の生活空間では、必ずしも明確に区切られているわけではありません。コンクリートやアスファルトに縁取られた現代の都市とは異なり、景色として見れば、それぞれの境界線はもっと曖昧なものだったはずです。一体となっている景色の存在感。それを際立たせる「境界線のあいまいさ」が、本作にはあると思います。
ただ、それだけだと「if」のない、ただの近代日本です。本作ではそこに蒸気管や蒸気までも輪郭をボカシて溶け込ませている。そこに、この作品ならではの世界観の「語り」がありました。

日本でありながら実在の日本とは違い、近代という時代でありながら少し違う。写実的に描いてしまうと露骨に感じてしまう「if」の部分を、あえて「ボカし」で包みこむ。その手段として「印象派絵画を思わせる」という言葉を選んでいるのではないかと感じました。

レンズ効果を意識した「ボカし」。

建物や草木が同じ場所にあるように、景色と人物もまた、同じ世界に存在します。
アニメーションでは、背景とキャラクターは別々の工程で作られるため、両者を同じ質感で画面に馴染ませるには限界があるように感じます。しかし本作では、この二つを「ボカし」によって繋ぎ、同じ世界に存在するものとして見せているのが素晴らしいです。

1話、稲子初登場のカットがまず印象的でした。
ここでは奥の背景と右前髪を同じレベルでボカし、徐々に手前の顔にフォーカスを当てていくような描写になっています。画面全体から神聖な空気感を強く感じました。
手前側の手は撮影処理かと思いますが、稲子の首筋の滲みのようなボカしや、背景のやや黒みがかった描写は、美術で描いているようにも見えます。
レンズ感という意味では被写界深度の浅い画面演出。京アニの十八番の演出であり、撮影処理の質感も申し分ないはずです。そこをさらにこだわり、新しい被写界深度の浅い画面演出を見せてくれました。
稲子の「信じる」が初めて溢れ出る、とても大切な瞬間への熱意を感じました。*1

1クール後半に入ってからは、セル描きをピン送りでBOOKのように「ボカす」演出がありました。


単なる視線誘導としてのピン送りにとどまらず、背景と人物が同じ世界にいるということに、強い説得力を持たせています。
この演出もパッと見て美術セクションがボカしの絵を作っているのかと思ったのですが、CGWORLDの本作の特集ページにこんな事が書いてありました。

なお、制作が進む中で、撮影セクションで油彩風ボケ処理が開発され、背景セクションの描画によるボケと併用するかたちになっていったとのこと*2

上記ピン送りは、7,8話のもの。もしかしたらこのボカしは「制作が進む中で」撮影の創意工夫によって生まれたものなのかもしれませんね。

ボヤケた世界から見えるもの。

ここまで「ボカし」について見てきましたが、こうして並べてみると、本作における「ボカし」は、単に画面を美しく見せるための表現ではないように思えてきます。
登場人物の心象風景に寄り添ったり、「世界の雰囲気」を縁取ったり。さらに、輪郭を曖昧にすることで、そこに漂う感情そのものをすくい上げるような働きもしているのではないでしょうか。

ぼかしは、曖昧さを強調する表現でもあります。
清六を取り巻くそれぞれの感情や因縁は、はっきりとした輪郭を持たないまま、しかし確かにそこに存在しています。ひとつの感情だけをくっきりと描くのではなく、ぼかすことで、その場に漂っているさまざまな感情を、画面全体から広くすくい上げる。
本作の「ボカし」には、そんな働きもあるように感じます。

以前取り上げた「煙霧の演出」とも親和性が高い表現です。時として曖昧に歪んだ輪郭は、不気味さや不安を煽ります。モヤのかかった世界の演出との相乗効果という意味でも、ボカしの表現は存在感がありました。

 

「印象派絵画を思わせる」という宣伝文句は、ともすれば画面の美しさをアピールする言葉にも聞こえます。もちろん、本作の背景が美しいことは間違いありません。
ただ、私がこの「印象派絵画風」の画面から強く感じるのは、むしろ煙や土の匂いです。美しさというよりも、そこに漂っている空気や湿気、土ぼこりまで含めた、「世界の匂い」を伝えるための表現なのではないか。そんなふうに強く感じました。

美術監督の高山さんは、本作について「印象派の一瞬を捉えたようなイメージをつくれたら」と語っています。
その言葉を、私は単に「美しい一瞬を描きたい」という意味だけではなく、その一瞬に漂っている空気や感情まで含めて捉えたいということなのではないか、と受け取りました。

輪郭をぼかすことで、そこにあるものを見えにくくする。けれど、その代わりに、輪郭を持たないものまで画面の中に浮かび上がってくる。

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』の「ボカし」からは、この世界に漂うさまざまな感情や空気、そして「匂い」を感じさせてくれています。

*1:5話でも同様の被写界深度の浅い画面演出がありました。こちらもケイトの心情に深く寄り添う大事なカット。


*2:CGWORLD.JP「アニメ『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』京都アニメーションが描く印象派絵画のような画づくりとは〜No.1/美術篇」
https://cgworld.jp/article/2607animecg-denkimokuroku01.html

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』1~6話を見て-感想メモ-

現在放送中の『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』も、早くも第6話まで放送されました。
ここまで見てきた中で、気になった部分、そして書き留めておきたい部分をいくつか。

原作改変の「悪し」の部分

放送開始から間もない頃、原作者の方が、原作とアニメで大きく内容が異なることをネガティブに示唆するポストをされていました。

明治時代に即した世界から蒸気を強調する世界への改変、喜八と稲子の逃避行という原作の物語からの改変、シンプルな悪役に徹する洋輔からの改変…作品の根幹部分が大きく変わったわけですが、媒体が文章から映像へ変わる以上、どちらが良くてどちらが悪い、とは一概に言えないな、というのが個人的な感想です。

ただ、現時点で「悪し」と感じているのは、原作の大筋そのものを変えてしまったことです。
洋輔との婚約や父からの冷たい言葉によって、本気で「死にたい」と感じた稲子の失望感。その感情へ真摯に手を伸ばす喜八。それぞれの異なる価値観を語りつつ、逃避行の中で距離が近づいていく。真っすぐで誠実なストーリーラインの中で登場人物の心の内が明かされていく展開は、文化や価値観が移り変わる世界の中で、衝突から相互理解への軌跡が見事に描かれていました。

一方、アニメではここまで、電気を使った発明によって登場人物の未来を照らす物語が続いています。その物語の中で主要な登場人物が本音や心の内を明かす場面はあれど、各エピソードのゲストキャラの人物にそのスポットライトを奪われている印象です。6話は番外編のような色合いでしたし、物語の本筋から回り道しているエピソードが多いと感じました。

浦畑達彦さんがシリーズ構成を担当していることもあり、浦畑さんが各話脚本で参加していた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のような、1話完結のエピソードを積み重ねていく構成が頭をよぎりました。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』ではさまざまな人物と出会うことで、ヴァイオレットがこれまで知らなかった感情を一つずつ知っていく、という心の動きがありました。

一方で本作では、ここまでのところ、喜八や稲子自身に変化を与える物語が少なく、価値観や感情を掘り下げる場面も乏しいように映ります。

原作がロードムービー的な物語なので、映像化が難しく、世界観を語るには適していなかったというのもあると思いますが、登場人物の感情表現や感情の掬い取り方は、今のところ満足のいくものではないです。

コメディの表現

原作とも違い、いままでの京アニ作品とも違う要素として、コメディの表現があります。

誇張した表情、デフォルメ、漫画的な実線の密度、線の揺らぎ。個人的には非常に面白い試みだと思いました。この表現について太田監督が触れるとき「真剣に生きた結果の表情」と言及しており、明度の低い背景とのギャップによって、更に登場人物の感情が強調されているように感じます。

この表現は特に洋輔の感情描写で用いられることが多く、嫌味のある敵役である洋輔に愛嬌を加えるという意味でも、面白いアイデアだと思います。

一方で、シリアスな感情を見せる場面では、少し危ない表現のようにも見えました。
先にも触れたとおり、原作では婚約者が洋輔であることというのは、稲子にとって絶対的に拒絶したい出来事です。婚約者となったことが直接的な原因ではありませんが、その過程で父親から叱責され、死を望む出来事にも繋がっています。

アニメでは婚約者ができたことに対して稲子の反応は鈍く、シチュエーションによってはコメディチックな表現にもなります。5話では少女漫画的な瞳の表現で他人の恋愛に興味を惹かれる姿もありました。

テレビシリーズという長い時間軸の中で、ずっとシリアスなトーンを維持することが難しいことは理解できます。また、今後の展開で「洋輔との婚約」に改めてフォーカスが当たる可能性もあるでしょう。
だからこそ、そのときに現在のコメディ表現が、物語の展開や人物の感情が持つ重さまで軽くしてしまわないか。そこには少し心配もあります。

演出の主役に据わる「背景美術」

京アニの映像演出はカメラワークやカット割り等の「演出」だけが主役ではありません。時に作画であり、時に撮影であり、いろいろなセクションからの足し算の部分に魅力があると思います。

本作ではその主役の座が「背景美術」にあるのは、画面を見ているとひしひしと伝わってきます。土や草木、川が身近にある一つ前の時代。そしてそこに漂う煙霧。独特な世界観の表現方法は本当に素晴らしいです。

背景と登場人物が並び立つ世界。当然といえばそうなのですが、これができている作品というのはそう多いものではありません。そのうえで独自の世界観を作り上げているところに、太田監督のこだわりを感じました。

 

物語の部分では、原作から大きく形を変えたことで、まだ評価を決めきれない部分もあります。一方で、映像表現については、ここまでの6話だけでも「この作品でしか見られないもの」がかなり見えてきました。コメディの表現も、背景美術の作り込みも、これまでの京アニ作品とは少し違った方向へ踏み出そうとしているように感じます。

原作を知っているからこそ気になる部分はありますが、だからといって原作との違いだけを追いかけてしまうのも、少しもったいないなと感じています。「spoon.2Di vol.136」掲載の太田監督インタビューでは終盤話数の展開に注目を、という発言もありました。

残りの話数で、喜八と稲子の物語がどこへ向かうのか。そして、この独特な世界を太田稔監督がどのように描き切るのか。

引き続き、楽しみに見ていきたいと思います。

「京アニ歴代ポスターカードコレクション」を買いました。

先日、京アニショップで予約販売されていた「京アニ歴代ポスターカードコレクション」を買いました。

ラインナップはこんな感じ。

1パック660円で3枚入り。…高くないですか…?カードのパック売りってそんなもんですかね。

63種類の絵柄がコンプリートされる1BOXは13,860円。…高くないですか…?そんなもんですかね…?

ということで今回は1パックで引いた3枚の作品の思い出を思い出しつつ開封してみたいと思います。

1枚目。

ドキドキ。

おお、『MUNTO 時の壁を越えて』!渋い!

このポスターを見るたびに「構想5年」で笑ってしまう。カット数とか作画枚数は良いとして、構想5年って…売り文句なのか…?みたいな。

京アニ単体の企画でOVAだからか、キャラクターを全面に押し出さない、レアなポスターな気がします。キャッチーさより作品で売っていこう、みたいなスタンスが垣間見えます。

作品自体は現代の日常パート…というかユメミ葛藤(?)パートが長くて、かなり凝ったレイアウトが多かったですね。ポスターは結構禍々しいですが日常芝居が光っていた印象です。
初めて見たのは00年代後半だったと思いますが、そのときには気づけなかった作品の良さを10年後くらいに見たときには気づけた…そんな作品でした。

エンドロールも面白いんですよね。

挿入歌を牟田亮平さんが歌ってたり

KOCP(京アニプロジェクトオリジナルコンテンツパートナー)というかっこいい名前の元、京アニスタッフやそのご親族らしき人たちが名前を連ねていたり、そのクレジットがなぜか申込順だったり。

もうちょっと売れていれば『MUNTO』の特典映像にあった石原さんとか武本さんのオリジナル作品もOVA化されてたのかな…と思うと、非常に惜しい作品です。京アニが若かったころの試行錯誤がいろいろ垣間見えて、今の京アニには作り出せない青さが好きです。色んな意味でロストテクノロジー。

2枚目。

『らき☆すた』!懐かしい!

放送開始の頃は一番アキバに行ってた時期ですけど、このポスターと「もってけ!セーラーふく」をアキバで聴かない日はなかったですね。
放送開始が4月で、原作4巻が4月10日に出たっていうのをすごく覚えてます。ハルヒから一年…みたいな。原作はゲーマーズ限定の外カバーとかあったりして、アニメ系ショップに大量平積みされてた思い出。今考えると売り出し方がうまい。

声優の広橋涼さんが好きだったんですが、ドラマCDでこなた役だったのが、アニメ版で平野綾さんになったのは複雑な気持ちになりました。この頃は大人の判断でキャストがガラッと変わってしまうことも少なくなかったですね。『処女はお姉さまに恋してる』とか…。

ポスターにある「勝負!!」がなんだかすごく好きです。『らき☆すた』は語感で印象に残るものが多かったです。サブタイトルの「つっぱしる女」とか「私じゃなくても旺盛」とか。OPもそうですし、本編でも語感だけでネタにされてる言葉が多かった気がします。

ポスター右上に放送スケジュールが書いてありますが、チバテレ最速だったのもすごく覚えてます。日曜放送は勝ち組でMXとかの別日放送は負け組みたいな風潮。この頃の記憶があって未だに「MXは信頼ならん」みたいな先入観があります(ブロックノイズもどうにかしてほしい)。

3枚目。

『CLANNAD 〜AFTER STORY〜』!!このポスター、京アニポスターの中でも3本指に入るくらい好きなのでめちゃくちゃ嬉しい…!!!

家事が上手なヒロインとかメイドキャラとかたくさんいますけど、こういう番宣ポスターで生活臭を漂わせたやつって自分の中ではこれ以外に見たことないかもしれないです。安アパート、ベランダの鉢植え、洗濯ばさみ、洗濯カゴ、地味なエプロン姿。逆に新鮮です。
このころのポスターって登場人物を際立たせるためのイメージBGとかが多かった気がしますし、逆光のアングルっていうのは相当珍しかったと思います。アニメイトとかでポスターが張り出されてたときにはかなりインパクトがありました。

このポスターもそうですが、作中時間は夏が印象的でした。本放送は冬とかでしたが、やっぱり夏の印象として残ります。

この頃は高雄さんがエースピッチャーでしたね。あの湿度と寂寥感を抱えた演出っていうのは、京アニ演出陣の中でも特異でした。ユーフォシリーズで高雄さんがチーフ演出やってたら…とか時々妄想しますが、かなり違うテイストになっていたでしょうね。

 

以上。

2003~2026年までのポスターの中で、2005~2008年ってずいぶん偏ったラインナップ…!もう少しそれぞれの時期の思い出とか思い出したかったような気がする…!!!

それにしても、ちょっとカードが小さい。

文庫本と並べるとこのサイズ。周りが額縁調なのもあってすごく小さく見えます。

もうちょっと枚数とかサイズとか値段とか、どうにかしてほしかったですね。

 

 

 

 

 

 

 

…と言いつつボックス買っちゃった。京アニファンとしてこんなおもろいグッズないですからね。未開封で棺桶まで持っていきたいと思います。
カードパック開ける時のワクワク感、久々に味わいました。今度は版権絵でカードコレクションとかどうですか、京アニさん。

『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』1・2話。煙霧と光の演出。

『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』の放送が始まりました。
1・2話を観て強烈に印象に残るのは、画面を満たす「煙霧の暗さ」です。

アニメオリジナルのスチームパンク要素によって、この世界には煙霧が当たり前のように漂い、発達した蒸気技術の代償として空は茶色に濁っています。画面のどこにカメラを向けても、濁った煙霧が絡みついてくるような世界観。これが強烈でした。

この世界における対比構造は「影と光」…というよりも、「煙霧と光」と呼んだ方がしっくりくるように思います。
光を閉ざし、視界を奪う「煙霧」があり、その煙霧の向こうで暗闇を恐れる喜八が電気の光を追い求めている。光を閉じ込め、世界を狭くしていく煙霧と、その中から世界を照らし出そうとする電気。
この構造があるからこそ、対比表現は単なる演出上の装置ではなく、「明磁」という時代そのものを彩る要素として存在していました。

今回は、1・2話で印象に残った「煙霧」と「光」の表現を振り返ってみたいと思います。

世界を覆う煙霧

1話のファーストカット。この作品は光を遮り、視界を奪う蒸気の煙から始まります。
異様なまでに発達した蒸気の世界。その象徴として存在する煙ですが、これから始まる喜八の物語にとっての「敵役」のようにも見えました。

発達した蒸気技術によって空が暗くなった結果、人々が様々な色の布を広げたという設定も、「蒸気による暗闇」を強く意識させるものでした。町中に張り巡らされた蒸気管もそうですが、この世界では空だけが暗いわけではなく、町の中にも、建物の中にも、生活のすぐそばにも蒸気が存在しています。
世界にカメラを向けるたび、蒸気という存在が絡みついてくる…その画面の作り方が面白いです。

「絡みつく煙霧」といえば、洋輔が漂わせるお香の煙も印象的でした。
蒸気によって世界全体を覆う煙と、洋輔の周囲に漂って稲子や喜八を包み込む煙。一見すると異なる二つの煙ですが、いずれも人を包み込み、光を閉ざし、世界を狭くしていくものとして描かれています。

様々な意味合いを込めているからこそ、煙霧は単なる背景ではなく、この世界を覆い、そして喜八たちを閉じ込めているものと言えます。

「煙霧」ではない暗闇

本作には煙霧以外の暗闇も登場します。

1話で稲子が死後の世界と錯覚した暗闇では、アウトラインを白にすることで、現世とは反転したような画面が作られていました。
アニメでよく見る薄暗い暗闇とは一味違う工夫を見ると、本作にとって「闇」がいかに重要なものであるのかが伝わってきました。そしてこの表現によって、「暗闇」というものが喜八だけの問題だけではなく、稲子にも関連するモチーフであることが位置づけられていました。

稲子が死へと落ちていくイメージ。暗闇に関連して、やはり煙霧が登場します。
煙霧によって視界を奪われ、どこへ向かっているのかも分からなくなる。煙霧という存在が、単に「蒸気の世界」を表現するためだけではなく、登場人物たちの置かれたネガティブな状況を示すものとして使われています。

ただし、煙霧と一口に言っても、その表現は一様ではありません。画面全体を覆う煙、人物の周囲に漂う煙、奥行きを作る煙、そして、死へと落ちていく稲子を包む煙…煙霧の形や濃さ、漂い方が場面ごとに異なります。

その時々によって姿形を変貌させる煙霧の表現は、一様には捉えられない「不安」や「恐怖」の象徴としても用いられ、世界や登場人物を非常に饒舌に語っているように見えました。

煙霧の向こうにある光

暗がりを照らすものとして、本作では光の演出も強烈です。

1話アバン、真っ暗闇の中で、電気の灯りが光を放つ。
その光が持つエネルギーと喜八が受けた衝撃が、画面全体を覆いつくしていきます。周囲の人物の写実的な描写も含め、情報量が一気に加速していくような演出でした。

画面の中に存在するものが、一瞬にして増殖していく。「光を見た」という出来事を、台詞や表情ではなく、画面そのものの密度によって表現する。
こういうアイデアは、画面の密度で勝負する太田さんらしい演出だと感じました。

そして、ここで喜八が見た電気の光は、単に暗闇を照らす明かりではありません。それまでの世界の見え方を変えてしまうものです。暗闇の中にあったものを照らし出し、見えなかったものを見えるようにする。暗闇に対する恐怖を凌駕する明るさ。電気に惹かれる理由が、光そのものの中にある。そんな印象を受けました。

一方、死後の世界と錯覚した稲子が見つめる極楽の光も印象的でした。ここでは、稲子のまっすぐな瞳に映る光が強く印象に残ります。
煙霧によって濁った世界。その中にある稲子の透き通った感情、そして、その瞳に映る光。
煙霧と光の対比は、単純な画面上の明暗だけではなく、登場人物の内面にも接続しているのだと改めて感じました。

2話では、煙霧に包まれた世界の上へと喜八たちが舞い上がります。ここでは稲子の「信じる」という長所が、煙霧に覆われた世界の上へと押し上げていくような展開が印象的でした。

世界がどれだけ煙霧に覆われていても、稲子はその向こうにあるものを信じる。この場面では、光が単に「希望」を表しているというより、稲子の持つ性質そのものに光が当てられているように感じました。

煙霧に覆われた世界で

『二十世紀電氣目録』の世界には、暗闇を生み出す「煙霧」があります。それは蒸気技術の発達によって空を覆い、町を包み、人々の視界を奪うものです。

洋輔の周囲に漂うお香の煙もまた、稲子や喜八を包み込み、稲子が死へと落ちていく場面にも煙霧が現れます。

煙は、世界を覆い、視界を奪い、人を閉じ込める。だからこそ、その中で電気の光を追い求める喜八の存在が強く印象に残ります。

ただし、本作における光は、単に「暗闇を照らすもの」として描かれているわけではありません。喜八にとっての電気は、世界を変えてしまうほどの衝撃です。稲子にとっての光は、自分が信じるものを照らし出すものです。

『二十世紀電氣目録』における煙霧と光は、単なる画面上の明暗だけではありません。煙霧に閉ざされた世界の中で、まだ見えないものを見ようとする情熱そのものが、光として描かれています。

1・2話では、その光がまだ世界全体を照らすことはなく、むしろ、煙霧に覆われた世界の中で、ほんの一瞬だけ強烈に輝いていました。

その光が世界をどう変えるのか。そして喜八や稲子をはじめとする「電氣目録」を取り巻く人物たちにどのような光を見せるのか。

今後の展開や表現が楽しみになる煙霧と光の演出でした。