「京アニの2番バッター・北之原孝将」――担当演出話数から見る北之原さんの役割。

京アニの演出に興味を持ち、何作品か見ていたころ、ふと思ったんです。「北之原孝将さんって監督がやったあとの序盤話数で演出やってること多くないか」と。

監督は言うまでもなく作品のリーダーであり、実際京アニ作品において、ほぼすべての作品で監督が1話の演出を担当しています。野球で例えるならば、一番バッターなわけです。
ではそのあとを担う北之原さん。これは二番バッターと言えるでしょう。そして二番バッターの役割とは、野球界のレジェンド、故・野村克也氏が言うには「つなぎ役*1」なのです。
最近の二番バッターの役割については、指標を用いた打線構築の話もあって、一概には言えなくなってきています。しかし、「打線の潤滑油」、「強打者がならぶ3番以降へのチャンスメイク」の印象がいまだに優勢なのは「二番バッター」でGoogle検索をすれば一目瞭然です。

急に野球の話をしてしまいましたが、こうした野球における打順の役割と、テレビシリーズのアニメ作品における演出家の担当話数というのは、共通点があるのではないかと思っています。先頭でどういう作品なのかを語り、その次に物語や映像のカロリーの起伏における「伏」を担当するエピソードがあり、インパクトの強い中盤話数がある。それぞれの打者の持ち味を生かしながら打順を組み立てるように、アニメの演出家の担当話数も、それぞれの個性を生かしつつ、作品全体の流れを形作っているのではないでしょうか。
京アニにおいては特にその可能性が高いです。初元請け作品『フルメタルパニック?ふもっふ』を除き、テレビシリーズの全話数において社内スタッフが演出を担当しています。スタッフの陣容が固まっていて、なおかつ個性や能力が把握できている。適材適所の役割を与えるにふさわしい状況です。それであれば、意図的に北之原さんをつなぎ役として活かしている可能性も大いにあります。

今回はそんな私の「京アニの2番バッター・北之原孝将」説を実際のデータで確かめつつ、担当話数でみる北之原さんの役割に注目してみたいと思います。

担当話数から見える偏り

まずは京アニ元請け作品のテレビシリーズ作品において、各演出家が何回参加しているかを見てみましょう。


・『二十世紀電氣目録』までの京アニ元請け作品で集計する。
・コンテ、演出、演出補佐でクレジットされたものを集計する。
・参加した話数においてコンテと演出両方でクレジットされていても1回と数える。
・劇場作品やOVAは含めない。番外編は最終話に続き放送された場合は含める。
・『涼宮ハルヒの憂鬱』2期においては新規話数のみ算定対象に含める。
・短編作品である『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』、『にょろ~ん ちゅるやさん』は含めない。 

クレジット回数は北之原さんが文句なしの1位。在籍期間が長いことも一因ですが、圧倒的貢献度です。

ただ、先ほど挙げた表は演出のみ参加の話数や、演出補佐としての参加も含んでいます。京アニの演出スタッフの体制で特徴的なものとして「単独コンテ・演出が多い」ということが挙げられます。この点の利点について、山田尚子さんと石立太一さんがスタッフコメンタリーで言及しています。

山田 だいたい演出の人間は決まっていて、各演出のコンテの癖とかわかるじゃないですか。最近ちょっと増えてきたのがコンテと演出が違ってるパターンが増えてきてる。ほんとは一緒が良いなと思うんですよ。一緒だったらコンテに線一本でも作打ちの時に隅々まで言える。その段階が踏めなくなってきてる。(中略)どう思います?(コンテと演出が別の人でも)どっちもどっちで良いとは思うんですけど。*2

石立 コンテと演出は一元的になっていた方が良いとは思う。コンテ描いたひとの頭の中のイメージを原画さんと一緒に演出としてやっていくという風にしないと、そこが目標じゃなかったという目標になってる気がする。思惑が二つ産まれてしまう。*3

このやりとりを踏まえると、「この人の演出回」と言い切るには、やはり1話を単独で担当している方が望ましいと言えるでしょう。
ということで、先ほどの表から「単独コンテ・演出回」を担当した話数のみ抽出しました。

これを見てみても、やはりトップの回数は北之原さん。演出で関わった話数の約7割は単独演出回。この割合は20回以上単独演出回がある演出家の中で、坂本一也さんに次いで2番目。ただ、坂本さんの倍はクレジットされていると思うと唯一無二ですね。
一人で任されることが多いということが、北之原さんが信頼を寄せられている証左です。

では、担当回数の多さだけでなく、どの話数を多く担当しているのかという点に注目すると、どうでしょうか。表1を話数ごとの担当回数で整理してみます。

・おおよそ2クール目である14話以降は省略。

こちらは大きな偏りが少ないです。監督が序盤の話数をやっている、というのはありますが、それくらいです。
ただし、一人だけ話数の偏りが顕著な方がいます。
北之原さんです。

3話担当・北之原さんの役割。

北之原さんの担当話数で、特徴的な点の一つは「3話」です。1話や2話を石原さんや武本さんといった監督経験者が上位を占める一方、3話は北之原さんの担当回数が10回と目立ちます。これは北之原さんの中でも7話の11回に次ぐ二番目に多い担当話数であり、二桁回数は3話と7話のみです。

1,2話で監督が演出を担当したあとに北之原さんが3話を担当したのは、10回中4回*4。冒頭に書いた「監督のあとに北之原さん」という流れが確かにあることが確認できます*5。
ただし、北之原さんの起用はそれだけではありません。『フルメタル・パニック!The Second Raid』では、1話を監督の武本さん、2話を山本寛さんが担当したあとに、3話を北之原さんが担当しています。『Kanon』では1話を監督の石原さん、2話を石立さんが担当したあとに3話を北之原さんが担当。また、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』でも、1話を監督の石立さん、2話を藤田春香さん*6が担当したあとに、3話を北之原さんが担当しています。
監督が作品の方向性を示し、そのあとを勢いのある若手演出家が担い、そこに北之原さんが続く。こうした起用法も見受けられました。

では、そこで起用される役割とは。
スタッフコメンタリーで武本さんと北之原さんが話す、序盤話数を監督が演出する意義に関する会話が参考になりそうです。

武本 いままでかつてないぐらい、1~3話までコンテをさせていただいた。それはすごい充実してました。

北之原 最初のうちに監督で(コンテを)描くと道筋はできやすいですよね。

武本 前の作品で2話までコンテしたことがあった。そのときも確かに、1話で一本やるよりは、もうちょっとしっかり出来てる感じがした。3話やるとさらにいろんなことが固められたというのはある。*7

最序盤の話数を監督が担当することで、作品の方向性や演出の道筋を固めていく。そうした流れのなかで北之原さんが3話を担当するのは、監督が示した方向性を引き継ぎつつ、前の話数で広がった表現の可能性を受け止め、作品全体の流れを整える役割が期待されているからなのかもしれません。

ただし、それは単に前後の話数をつなぐだけの仕事ではないでしょう。監督が示した方向性と、ほかの演出家が見せた表現の幅。その両方を踏まえながら、作品としての一貫性を保つ。
京アニの演出陣で最多の担当回数を誇る北之原さんだからこそ、担える役割なのではないでしょうか*8。

7話担当・北之原さんの役割。

北之原さんの担当話数でもう一つ偏った担当話数があります。それが「7話」です。北之原さんの担当話数のうち最多の11回となっています。

3話では、前の話数との関係から、北之原さんが序盤の流れを引き継ぐ役割を担っている可能性を考えました。では、7話ではどうでしょうか。こちらも同じように、直前の話数に注目してみましょう。

北之原さんが7話を担当した作品、および当該作品の6話担当演出
作品名 6話担当演出
AIR コンテ:石原立也、武本康弘 演出:石原立也
CLANNAD コンテ・演出:高雄統子
けいおん! コンテ・演出:石原立也
日常 コンテ・演出:三好一郎
境界の彼方 コンテ:小川太一、石原立也 演出:小川太一
Free!-Eternal Summer- コンテ・演出:山村卓也
小林さんちのメイドラゴン コンテ・演出:三好一郎
Free!-Dive to the Future- コンテ:山田尚子、藤田春香 演出:山田尚子
ツルネ -風舞高校弓道部- コンテ・演出:山田尚子
小林さんちのメイドラゴンS コンテ:石原立也 演出:山村卓也、石原立也
CITY THE ANIMATION コンテ・演出:小川太一

該当の6話を並べてみると、テレビシリーズの中でも異彩を放つ話数や作家性の強い演出家の名前が多いです。

「異彩を放つ話数」を挙げると、まず『けいおん!』6話。この話数では文化祭があり、初のライブシーンがあり、なおかつミュージッククリップ風の演出がありました。日常芝居や登場人物の会話劇が中心であった5話までの演出とは、かなり異なる内容になっています。

『境界の彼方』6話はいわゆるギャグ回であり、そしてダンス回としても異彩を放っています。7話以降とは大きく作風が異なる話数でした。

「作家性の強い演出家」の話数をあげれば、高雄統子さんや三好一郎さん、山田さんの演出回が言わずもがな、といった話数です。このお三方だけで11回中5回を占めており、その次に北之原さんが担当される意味が少し見えてきそうです。

また、『AIR』6話はみちるの物語がクライマックスを迎える話数です。本編では京アニ特有の夕景へのこだわりが発揮されるとともに、2004年当時では珍しいCGレイアウトを使っており、他話数とは異なる演出のこだわりが随所に見られます。
『けいおん!』や『境界の彼方』もそうですが、6話は1クール作品においてほぼ中間に位置する話数です。作品全体の区切りとして6話と7話を境目にして、後半がスタートする7話で北之原さんを起用する。そうした意図が見えてきます。

以上のことを踏まえると、7話での北之原さんの役割は、前半から後半への切り替わりを演出面から支えることにあるのではないでしょうか。

6話までには、作家性の強い演出や、それまでと異なる趣向の話数が配置されています。そうした前半の展開を受けて、7話から物語が後半へ進んでいきます。
6話までに広げられた作品の表現を受け止め、7話からの新たな展開へとつないでいく。7話の北之原さんには、作品の流れを仕切り直し、後半の新たなスタートを支える役割があったのかもしれません。

北之原さんの演出回は「つなぐ」「整える」「仕切り直す」だけなのか?

ここまで北之原さんの3,7話の演出回について「つなぎの役割」であったということを確認してきました。しかし、「つなぐ」「整える」「仕切り直す」といった、「一貫性を保つだけの話数」ということで語りきれるでしょうか。
私はそうは思いません。作品全体の構成を見れば「つなぎ」だとしても、その話数には物語があり、そして演出があります。

たしかに北之原さんは京アニ演出陣において「個性が強い演出家」とは言えないかもしれません。しかし、担当回数の多さだけでは見えてこない、北之原さんならではの演出の技があります。
この点について、いくつかの演出回をピックアップしてみたいと思います。

『涼宮ハルヒの憂鬱』3話

テレビ放送順で3話目を北之原さんが担当した『涼宮ハルヒの憂鬱』。1話をシリーズ演出の山本寛さんが、2話を監督の石原さんが演出しています。1話は番外編に近い内容のため、物語的にはこの3話が2話目に該当します。

3話は全体的に2話同様、キョンのモノローグ主体の「物語のはじまり」であり、演出的にもカット割りやレイアウト、1カットごとの尺は2話と大きく異なるものではありません。しかし3話終盤、長門の言葉から「この世界の本質」に及ぶあたりの演出は、2話とは少し異なっていました。

2話ではあくまでも「学園物のはじまり」であり、宇宙人等の存在は別世界の話に終始します。不穏な空気はなく、キョンのモノローグによって静寂を作らない演出がありました。
しかし3話の長門とのシーンでは、飛行機のジェット音やエレベーターの音といった環境音が前面にくるカットによって、非日常の片鱗が演出されています。

また、北之原さんの演出回ではカメラの動きでなく、カメラの位置による演出が印象的です。そしてそのカメラ位置による演出は全体に個性を張り巡らせるものではなく、シーンごとに1カット程度であることが多いです。この話数で言えば公園へ向かうキョンのカット、エレベーターのカット、そして長門の家のファーストカットの広角ショットがそれにあたります。個性はあれど作品の雰囲気は統一されており、そのバランス感覚が絶妙です。

長門の家のカットはFIXで横位置から。窓枠による境界線とそれを横断する飛行機、奥で明滅する警告灯の灯り。画面にある動的なものは限定され、にぎやかにアイデアが詰め込まれた2話とは異なる画面の作りが印象的です。

いずれの演出もエピソード全体を見ると、監督回の道筋を意識したAパートの演出によって、しっかりと前話数の地続きになっているところに北之原さんの巧さを感じます。

4話(坂本さん演出回)の冒頭では長門の家から始まり、3話同様、横位置のカットが映されます。しかし3話と異なるのは、カメラブレを多用し、3話とは強烈に異なる印象になっています。これは偶然かもしれませんが、前話数で北之原さんのFIX演出があったからこそ、カメラブレの演出が強化されてると感じました。

前話数を踏まえ、自らの演出を示し、そして次話数の布石を残す。この『涼宮ハルヒの憂鬱』3話は、北之原さんの技が詰まったエピソードだと言えます。

『境界の彼方』7話

6話が強烈なギャグ回、かつダンス回だった『境界の彼方』では、続く7話で魅せた北之原さんのモチーフ演出が印象的でした。

番外編に近い6話の後、未来と桜の確執を解きほぐし、物語後半へと進んでいく話数。異界士の才能がない桜の劣等感や、未来や姉と過ごした過去の記憶を「丸」のモチーフで描いていました。

「紫の月が見えない」という異界士としての劣等感、それを取戻すための妖夢石回収、未来との清算のためのマンホール穴、そして桜と姉・唯を繋ぐ鈴。このエピソードで桜が過去を克服するまでをほぼ描き切る必要がある中で、北之原さんのモチーフ演出によって、桜の心のうちを巧みに表現していました。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』3話

本作の序盤において、主人公・ヴァイオレットが片腕を失ったことは過去を描く演出として使われるとともに、現在のヴァイオレットの「欠けたもの」の象徴としても描かれます。加えてこの話数では戦傷を負った兄と、妹・ルクリアのぎこちない距離感についても「手」に想いを積み重ねる演出がありました。

宙に浮いた手、手袋に包まれた手、かつての手と手、届かない手。「手」にクローズアップする演出は珍しくはないですが、この話数では積み重ねていく「届かない手」が非常に丁寧に描かれ、ラストの「再び繋ぐ手」への滑走路のようになっていました*9。

さらにこのエピソードは、北之原さんが作品全体に影響を与える演出を生みだした、という意味でも非常に重要です。
エピソード終盤、心の荒れた兄を持つルクリアに対し、自分の想いが伝わらないことで涙します。

この涙の表現について、スタッフコメンタリーではこんな話がありました。

 石立 ルクリアが泣いているところですけど、ここの演出を北之原さんっていう人がやってくれてますけど、演出打ちのときにめっちゃこだわってはった。「普通に泣かせたくない」って。絵の表現として、涙がたまってきてツーと流れるというのは嫌だなと。普通の人が泣くときってそんな急に涙が玉になって溜まってでてきてっていうよりかは、目の表面自体が涙で潤んできて、その潤んだのが周りの光を反射して、少しキラキラして見える。っていうような表現からの(涙の)流れにしたいって。なので最初、少し下瞼の上あたりでキラキラしているのは、単にポロっと泣かすようにしたくないという北之原さんのこだわりがうまく形になってる。

高瀬 この涙に感銘を受けて、のちの話数でも結構使ってます。

石立 パクった?(笑)

高瀬 パクりました(笑)。これ良いなと思って。*10

京アニと言えば日常芝居へのこだわり、と言われていますが、その表現にはやはり最多演出回数の北之原さんも寄与しています。キャッチーなレイアウトや作家性の強い演出も京アニの面白さですが、その軸となるのは人物の芝居です。
派手さはないものの、感情表現に新たな風を吹き入れる北之原さんの演出は、「一貫性を保つだけの話数」ではない。そう言い切れます。

「京アニの2番バッター」の姿。

組織の中ではいろいろな役割を与えられますが、創作における「つなぎ役」というのは相当難しい役割だと思います。ただこなせばいい、というスタンスであれば、それは「面白みのない作品」と紙一重です。

自分の色を出しながら、作品の色も尊重する。芝居もアクションもこなし、そのなかで自身の演出を成立させる北之原さんの能力は、「3話、7話」というつなぎの話数に彩りをもたらすものだと、改めて思いました。

京アニの2番バッターの姿は、「信頼できる、多彩な便利屋」。野球で言うなら打って走って小技ができるバッター、といったところでしょうか。
そんなことが浮かんだところで、元ヤクルトスワローズ監督・真中満さんが語った「理想の2番バッター像」を思い出しました。

真中 (前略)2番に足の速い長打力があるバッターだったら、仮にフリーで打たせてもダブルプレーが少ないんで、1アウトランナー1塁で、塁に残るんですよ。そこからクリーンナップに行くんで、2番バッターに難しいこと、監督として考えなくてよくて楽だなと思って。
初回にランナー出て「どうするかな、送るかな、エンドランからなにしようかな」と思うんじゃなく、もう、ランナー出たらフリーに打たせる。初回の仕事が減るんですよ、監督として。*11

監督にとって仕事を減らす、頼もしいつなぎ役。そして一打にも確かな魅力がある。北之原さんこそ、そんな理想の2番バッターなのだと思います。
そして、そんな2番バッターがいるからこそ、「京アニ打線」は強固に繋がるのでしょう。

*1:野村克也著『野村克也 野球論集成』kindle版313頁。

*2:監督作品で別の演出家が演出することはどうなんだ、と思いましたが『私たちの、いま!

2019』48頁でこんな話をしてました。

山田 監督をしている作品をほかの演出スタッフに演出してもらうと厚みが出るというか。京都アニメーション・アニメーションDoの強みを感じます。寄り添いあって深めることができるんですよね。(後略)

*3:『響け!ユーフォニアム2』3話スタッフコメンタリーより。パッケージ3巻37分40秒ごろから。

*4:『涼宮ハルヒの憂鬱』、『中二病でも恋がしたい!』、『小林さんちのメイドラゴン』、『ツルネ -つながりの一射-』。ただし『涼宮ハルヒの憂鬱』は放送1話を山本寛さんが担当し、2話を石原さんが担当。

*5:北之原さんが2話を担当した4回のうち3回は、監督が1話で演出した後の2話です。3話という話数に拘らず、序盤話数を担う役割を考えると、この2話の演出も同義の役割なのかもしれません。

*6:『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では藤田さんがシリーズ演出という役割であることに留意したいです。

*7:『小林さんちのメイドラゴン』3話スタッフコメンタリー冒頭より。

*8:留意したいのが、この役割を北之原さんが100%担っているというわけではないことです。北之原さんが序盤話数を担当していない作品がある、ということもそうですし、北之原さんが序盤話数をやっていたとしても、監督がコンテ修正を行い、表現の幅を整えるという可能性もあります。実際、『けいおん!』2話や『kanon』3話のコンテに監督が修正を加えているのが各ムック本で確認できます。

*9:『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』ソフト1巻の初回特典ブックレットに掲載されている北之原さんのコンテ抜粋ページでは、北之原さんの手の演出について石立さんがコメントを寄せています。

*10:『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』3話スタッフコメンタリーより。パッケージ1巻1時間5分10秒ごろ。

*11:古田の方程式チャンネル「オーダーの組み方と理想の2番打者論を 古田敦也・野村謙二郎・真中満が語る 【監督バイブル】」https://www.youtube.com/watch?v=vaVZXfRR4qo 10分35秒ごろから。

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』を見て-感想メモ-

ついに最終話が放送された『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』。

前回、1~6話を見た段階でも感想メモを書きましたが(『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』1~6話を見て-感想メモ- - 京アニを潜る。)、そのころとは少し印象が変わった部分もあります。今回は、改めて最終話まで見た感想を残しておきたいと思います。

原作改変の「悪し」は「悪し」のままだったか。

6話までの感想で、稲子の婚姻を軸とした物語の改変を「悪し」としました。理由としては、原作において稲子が望まぬ婚姻を真剣に悩み、価値観の異なる喜八と出会う中で揺れ動く心の機微こそが、作品の良さだと思ったからです。電気目録という因縁のプロップのもと、登場人物の後悔や躊躇の感情が次第に吐露されていくような展開は、感情の揺らぎを描いてきた京アニ演出陣の腕の見せどころではないか、とも考えていました。

アニメ版では物語の改変によって、前半部分では電気の技術と洋輔との対立構造が中心となります。原作で描かれた、少し明度の低い感情とは異なり、大雑把に言えばハイテンションな方向へと変わっており、ここもまた「悪し」と言いたくなる部分でした。

しかし作品後半、婚姻からの逃避行を早々に描き切ったのは見事だったと思います。焦点を当てなかった部分をいつまでも物語の主軸に残さず、1話から描いてきた稲子の「信じる力」を原動力にしていました。
稲子は「杜氏になる」、喜八は「電気頭脳を完成させる」という、それぞれの目標に向かって進んでいく。一方で、清六を電気で蘇らせようとする洋輔は、「過去への固執」を抱えている。喜八と稲子の未来へ向かう意志と、洋輔の過去への執着。最終話で沈んでいく洋輔の望みと、空へ舞い上がる電気飛行機。喜八と稲子の「未来を信じる」という物語へと変貌していった終盤は、実直な活劇として見ごたえがあるものでした。

原作改変によって「心の機微」という要素が薄くなってしまったことは残念ではありますが、思い切って活劇へと舵を切った構成はとても面白かったです。

洋輔の存在と表情。

個人的に、洋輔の存在が本作の一番好きな部分です。

清六に固執するだけでは「狂気の悪役」というテンプレートに収まってしまいますが、清六から何かをもらった人として、喜八と同じ方向を向く終盤の展開は素晴らしかったです。最後に悪役が改心する、という物語は多々ありますが、改心ではなく、その方向性を諭すような展開には新鮮味と説得力がありました。

そしてその方向性を諭すまでの、「清六は蘇るべき」という執念を極端な表情によって描いていました。12話ラストの表情はその骨頂とも言えますが、単なる「極端な表情」という言葉で終わらせたくない表現でもありました。

――また本作では、かなり崩した表情やコミカルな動きが多用されています。太田監督にはどのような狙いがあったのでしょうか?

太田 もちろん、これはふざけてやっているわけではありません。キャラクターを好きになってもらうためには、どうすればいいかを考えた末に、表面に見えているもの以上のこと、その“本心”を見せたほうがいいのではないかと思ったんです。*1

恐ろしくもあり、滑稽でもあり、そして痛々しさも内包している表情。太田さんが語った「本心を見せる」という考えを、洋輔が体現していたように感じました。

進化する密度。

放送開始前に、太田さんの演出回について記事を書きました。(太田稔さん演出回を振り返る。 - 京アニを潜る。)
記事では太田さんの密度の演出をピックアップしたんですが、本作においても煙霧の演出、表情の芝居、背景美術のこだわりによって、その密度は健在でした。そしてさらに、話数が進むにつれて、その密度そのものが変化していくようで、そこがまた面白かったです。

太田さんがコンテを担当した12話は、最終話に先立って「密度の進化」が感じられた話数です。

その象徴はやはり、背景美術の多彩な表現。シンプルな曇天の風景、シチュエーションに応じたボカしの表現、地下の乱雑な光。独特な世界観を描き続けてきた本作ですが、12話では、それまで積み重ねてきた様々な表現によって、その世界をさらに豊かに映し出していました。

電氣頭脳は、それこそ密度の塊でした。画面のすべてを覆いつくす内部構造は、緻密で、それでいて迫力のある、強烈な姿でした。

登場人物の熱量が凝縮されていくにつれて、画面そのものの密度も増していく。それは単に情報量が増えているということではなく、登場人物の感情を、これでもかと画面に敷き詰めていくような感覚でした。そこに、太田さんの「密度」の進化を感じました。

 

原作の持っていた「心の機微」を描く物語から、アニメ版は大きく舵を切りました。

その選択には、6話まで見た段階では「悪し」と感じた部分もあります。しかし最後まで見れば、その改変は単に原作を変えたというだけではなく、稲子と喜八を「未来へ進む」物語に置き直すためのものだったのだと思います。

そして、その物語を画面の密度とキャラクターの表情という「太田さんの個性」が物語の推進力になっていました。

原作とは違う。だからこそ、太田監督の『二十世紀電氣目録』を味わえた。最終話まで見終えた今は、そんなふうに感じています。

 

『最終楽章 響け!ユーフォニアム』後編 小川太一さんはどう「紡いだ」のか?

監督の小川太一さんは、本作のパンフレットで「紡ぐ」をテーマにしたと語っています。
この「紡ぐ」という言葉は、パンフレットに何度も登場し、舞台挨拶等でも触れられています。

では、小川さんはどう紡いだのか。
その答えは前編から積み重ねた、桜、雲、そして「託す」「託される」という関係性の演出にあったと思います。

「桜」・「雲」・「託す、託される」演出。

桜は、前編冒頭に印象的なシーンがありました。


久美子に部長を託し、卒業していく一学年上の先輩。回想シーンにはテレビシリーズの既存カットに挟まれて、桜のつぼみのカットが新規カットで挿入されています。このカットのコンテにはこのような端書がありました。

つぼみの桜 わずかに開く ゆれ始めて次CTと繋ぐ感じで*1

続く物語としての桜、という意味に加え、世代の入れ替わりのニュアンスをかすかに滲ませていました。

次のシーンでは、久美子のもとへ桜の花びらが落ちてきます。落ちてきた花びらは久美子から奏へ。
物語の始まりでありながら終わりを感じさせる演出が、先ほどの桜のつぼみのカットも相まって、とても印象に残りました。新学期、最上級生、部長という役割…新たに始まったことはたくさんあれど、終わりを感じさせる3年生という時間。久美子と奏のなにげない会話が、後編を見た後にはかけがえのない時間だったんだと、改めて気づかされました。

そしてこのカットが新規カットで小川さんが描写しているところに、桜というモチーフを積み重ねる明確な意図を感じました。

後編での桜は、終盤で受け継がれる「響け!ユーフォニアム」のシーンで描かれていました。後編のとても大事な描写の中で、前編と重ねるような桜のつぼみや、時間経過の演出によって桜の木が成長していく描写がありました。
春を過ぎれば、桜の花びらは散ってしまいます。しかし、散っては咲き、散っては咲く。高校生活や部活動という非常に短い時間であっても、確かに積み重なっていくものがある。前後編を使って積み重ねられた桜の演出は、その「積み重ね」を強く訴えるものがありました。

雲も桜と同様、前編冒頭から印象に残るモチーフです。

前編冒頭、久美子が「響け!ユーフォニアム」を演奏する間、校舎やその周辺が点描で描かれます。一つ一つのカットを楽曲と併せてゆったりとした時間で描いていました。

ここで個人的に気になったのは、「雲の流れ」です。
ゆっくりと流れる雲はリアリティの追求、という意図もあるかと思いますが、直前に描かれた回想によって、時間の移ろいを意識させられました。この雲の流れはCGや撮影セクションのアイデアではなく、コンテ段階からト書きに書かれていました。

雲ジワSL(よく見ると動いているくらいのニュアンス)*2

このカットのみならず、前後編で空が大きく映るカットは、ほぼすべてのカットで雲がゆっくりと流れています。コンテからのアイデア、かつ徹底された演出ということを考えると、雲の演出が小川さんの中でいかに重要な要素だったのか、というのが見て取れます。

それを踏まえると、後編の自由曲メドレーで描かれた入道雲からは「雲はいずれ流れてしまうが、積み重ねられていくものもある」という力強いメッセージを受取りました。
空に厚く重なる入道雲と、今までの北宇治高校吹奏楽部メンバー。遠くにありながら、確かにその存在を感じる大きさ。
自由曲メドレーのここぞというところで描かれた入道雲は、空の青さと雲の白色のコントラストがとても力強く、心にグッときました。

桜や雲に比べると直接的ではありますが、「託す、託される」演出を印象付けていることにも注目したいです。
前編では、久美子が託される側であったことを強調していました。

あすかからスコアノートを、一つ上の世代から幹部ノートを。託される物の差こそあれ、積み重ねることで託された久美子を印象づける演出でした。

滝先生から部室のカギを渡されるカットも印象的でした。
滝先生のオーディション結果に納得ができない久美子。いつものように北宇治高校吹奏楽部を託そうとする滝先生。それを受取ろうとして、久美子の手が下がる。いつもの動作から逸脱し、本心を漏らすという構図を作り出していました。
滝先生の答えに納得して飴を受け取る久美子は、滝先生から教師としてのみならず、北宇治高校の目指す場所を託される側として存在していました。

そして後編。北宇治高校を卒業する久美子は、あすかから託されたスコアノートを奏に託します。先に挙げた「託す・託される」のアングルで描くことで、単なる久美子から奏へのバトンタッチではなく、今まで積み重ねてきた「託す」をまとめて渡しているようにも映りました。

「託す・託される」という構図自体は珍しいものではありませんが、奏に託されたスコアノートがより一層特別となるような、そんな伏線的演出が本作にはありました。

「石じゃないよ。人だよ。」

雲や桜は、終わりを示すモチーフとしても使われます。
本作にもそのニュアンスがありますが、小川さんは、その終わりを「失われること」だけでは終わらせませんでした。モチーフに積み重ねられた想いを映すことで、消えていくものの先に、次へと続いていく繋がりを見せました。「託す・託される」演出は、それを明確に提示したものだったと思います。

また、滝先生は生前の妻に、高校で吹奏楽を教えるのは「賽の河原に石を積んでいるようなものじゃないか」と語ります。しかし妻は、「石じゃないよ。人だよ」と答えます。
このシーン自体はテレビシリーズから存在していたものです。しかし小川さんは、この言葉を本作の様々なモチーフに仮託してみせたのではないでしょうか。

いずれ雲は消え、桜は散る。三年間を終えた部員も、北宇治を去っていきます。
積み重ねたものは、いつか姿を変えます。それでも、それは無駄になるわけではありません。人である彼らは、次の誰かによってその足跡を残していくのだと思います。

小川さんが積み重ねてきた演出によって、「石じゃないよ。人だよ。」という言葉は、自由曲メドレーや「響け!ユーフォニアム」という音楽となって紡がれ、さらにその音楽は、北宇治高校吹奏楽部のこれまでと、これからの軌跡を描き出しました。
説得力のあるモチーフ演出の後に映し出された音楽と映像は、あまりにもエモーショナルで、あまりにも鮮やかでした。

紡がれたもの、積み重ねたもの。

本作は、3期の総集編という側面を確かに持っています。しかし、小川さんによって再編集され、新規カットによって肉付けされたこの「総集編」は、もはや単なる総集編ではありません。
そこには、時間とともに積み重ねられてきたものを、人から人へと受け渡し、過去から現在、そして未来へと紡いでいく、小川さん自身の演出がありました。テレビシリーズとも少し異なる、小川さんなりの演出とも言えます。

もっとも、「紡ぐ」というテーマそのものが、小川さんだけのものだったわけではありません。久美子が三年生になった時点で、これまで描かれてきた出来事や人間関係は、すでに物語としてつながっています。これまでの物語を振り返れば、そこに「紡がれてきたもの」を見出すことはできるでしょう。

だからこそ、小川さんの「紡ぐ」は、過去と現在をただ結び直すことではなかったのだと思います。
前編で桜や雲、「託す」「託される」という仕掛けを積み重ね、それらを後編で時間の流れとともに回収し、一つの意味へと変えていく。その「積み重ね方」こそが、小川さんにとっての「紡ぐ」だったのではないでしょうか。

*1:ソフト特典の絵コンテ集25ページより。

*2:同上6ページ。

『最終楽章 響け!ユーフォニアム 後編』舞台挨拶(2026.9.12 新宿ピカデリー)に行ってきました。

ついに公開された『最終楽章 響け!ユーフォニアム 後編』。いろいろ書きたいことはあるんですが、先に舞台挨拶のレポートから。

今回は15時20分の上映後挨拶回と18時55分の上映前挨拶回の両方に顔を出せました。

いずれも登壇者は原作者の武田綾乃さん、石原総監督、小川監督。司会進行がポニーキャニオンのプロデューサー。

〇上映後挨拶回

―後編が公開され、作品を作り終わった今の気持ちは?

小川 感無量というか、ありがたい気持ち。

石原 感情的なこととしては、「ユーフォロス」みたいな気持ち。一つの時代が終わったしまった、というような。ある意味で怖い感じ。仕事的にはここまで続けられてよかったという気持ち。黄前先生が救いだよね。今もあの人は忙しくしてるのかなとか思えるから。

小川 そこ(3期で黄前先生を最後に登場させたのは)石原さんのホスピタリティですね。

―石原さんは本作でラストの自由曲メドレーのコンテもやられてますよね。

石原 小川監督からたくさんリテイクをもらった。最初は久美子に寄り添いすぎてしまってた。

小川 石原さんには自由曲メドレー、OPコンテをお願いした。自由曲メドレーのコンテは長年ユーフォに携わってる石原さんだからこそ描けたコンテだと思います。

石原 彼(小川監督)は「紡がれること」にこだわってて、それに関するところを直した。最初はテンポの速いカット割りにしてたら「もっとカット減らして」って言われて直したり。

小川 でもそのあと「やっぱり増やして」ともお願いしてたり…。石原さん特有のテンポ感を直してしまったところもあって。

―シリーズを完結させるうえで意識したことは。

小川 いろんな作品を作ってきて、「テーマを決めることが大事だ」と思っていて、「繋ぐ」から「紡ぐ」、というテーマは意識していた。あとは「タイトルを回収したい」と思ってた。なにが「響け」でなにが「ユーフォニアム」なんだろうと考えたり…

武田 哲学的ですね。

小川 「わがまま」とかもそうですね。言葉ではなく感覚で理解してもらうにはどうしたらいいだろう、と。本来「わがまま」ってネガティブなイメージじゃないですか。でもこの作品ではプラスに感じる。それをどう伝えるか、というのをテレビシリーズを作ってる時から思っていた。

―後編はどのような作品になったか。

石原 小川くんが締めたことで、長くみなさんの心に残るものになったと思う。

―後編では真由をたくさん描いているが。

小川 もしかしたら原作や3期とイメージが違っているかも、と思われるかもしれないが、自分はそう思っていない。真由は久美子の合わせ鏡みたいな存在。何かを与え、与えられる。そういうところからノートを渡すための構成を積み上げていった。

―文化祭の選曲については。

小川 前編と同じで楽しませる音楽を、と思っていた。いろいろ候補はあった。ユーミンとか。コンテ作ってる時もギリギリまで選曲は悩んだ。コンテの都合で音楽を編集してもらったところも。

―お気に入りのシーンは。

武田 昭和喫茶がよかった。

小川 あれは脚本の花田さん案。小川からはなんでもいいと言っていたけど、昭和喫茶になってた。キャラは池田さんのデザインだけど、スケバンは花田さんの脚本からすでに書かれてた。真由のデザインは悩んだ。実はつばめとおそろいのデザイン。

―『届けたいメロディ』を意識させるシーン*1もあったが。

小川 特別踏襲しようという意識的にはなかった。OPのところはこうだよなっていうイメージがあった。終わり方はすごく悩んだ。そういう時、テーマが大事。「紡ぐ」がどうあるべきかというのを考えてああいう終わり方にした。

―自由曲メドレーはどういう経緯で作られたのか。

石原 前編が要因になってるよね。

小川 前編で「一年の詩」をフルでやったから、後編はどうしようか、というところから始まりましたね。

石原 作品の構成を考えると、普通はサンフェスが前半の終わりになるけど、そうはしなかったからね。

―花田さんの脚本では自由曲メドレーのところはシンプルに書かれてましたね。

小川 前編やる前からメドレーというアイデアはあった。花田さんからも提案されたけど、自分はメドレーってあんまり好きじゃない。でもメドレーではなく、一本の音楽として作り上げれば…と考えたとき、勝算が浮かんだ。あとは鶴岡音響監督からもウルさいから意見を聞いて(笑)。鶴岡さんもいいんじゃないって言われて、スタートを切った。メドレーは自分の掲げたテーマ(紡ぐ)とも一致してる。でも足踏みもしてた。やっぱり大変だと思ったから。音楽の松田さんが作ってくれて、それのおかげでやれるな、と思った。

―好きなキャラクターは。

武田 みんな好きですけど、後編ではやっぱり奏ですね。

小川 まんまとハマりましたね(笑)

―原作にもなかった真由とのシーンなんかもありました。

小川 奏と真由のシーンは、あれで真由が完成したんじゃないかって思えた。絶対に後編で入れたいと思ってたシーンだった。

 

〇上映前挨拶回

―作品を作り終えて。

小川 まずは感無量という気持ち。そう思えるような気持ちで作ってた。

石原 シリーズを作ってるときも毎回「これで終わり」と思ってやってるけど、その都度プロデューサーが続編の話を持ってきた。でも今回は本当に終わり。パカッと空間が空いたような、そんな感覚。

―どんな思いをもって後編を作ったか。

小川 この作品が先々自分の中で続いていくような作品になれたら。ずっと残響が残る作品にしたい。作品のコンセプト出しをやってたころは、そうペラ一枚に書いたこともあった。

―石原さんは総監督としてどんな仕事をしたか。

石原 小川君がコンテにつまづいたときの相談役。あとはずっとタイムシート直してた。一か月くらい。長く演出処理やってた。

―小川監督は石原さんに助けられたエピソードはあるか。

小川 具体的なエピソードは浮かんでこないけど、いろいろ助けられてますよ。それこそ自分からすれば演出のキャリアが段違いですし、レジェンドです。石原さんが総監督でいることに安心したり、意見を聞いたりできるので助かってます。

―後編の作業を進めるにあたり、スタッフにはどんな話をしたか。

小川 「紡ぐ」とはどういうことか、というのは言葉の限りを尽くして説明した。「紡ぐ」って口に出すと恥ずかしいけど、恥ずかしがらずに面と向かって、向き合おうと。

石原 打ち合わせのときも今言ったことそのままの内容で話してたね。

―後編はどのように作られたのか。

小川 前編は自分で、自分なりの構成をして作った。後編は花田さんの脚本が軸。そこから編集して、前編との整合性をとったりした。

―小川監督は本読みのとき、A3用紙に出力しても読みづらい文字で資料を作ってきてましたね。

小川 アイデアマップですね。大事なものはなにか、というの共有したくて見せたけど、作ったのをそのまま見せた感じで分かりづらかったかも。

―新規シーンの入れ方はどのようにして決めたのか。

小川 「ここを」というよりか、どういう話にするかという組立ての中で必要に応じて入れていった。最初はなめてかかってた。前編は3期10話までやったから後編は3話分だけだし、余裕で尺入るな、と思っていたけど、そうはならなかった。

―約2000カットある後編ですが、新規カットは1060カットある。

小川 半分以上ですからね。

―小川さんが響いた石原さんの言葉はありますか。

小川 そういう言葉はなかったですけど…あえて言うなら石原さんの生き様そのものじゃないですか。たまに「石原さん!(怒)」みたいなこともあるけど、これは石原さんじゃないとダメだって時もある。石原さんは良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把。でもそれが大事なこともたくさんある。

―逆に石原さんが響いた小川さんの言葉は。

石原 直接的にはないけど…。僕は大雑把だけど、小川君はきちっとしてる。コンテを全編Vコンテ作ってたり。見習いたいと思ってる。

―原作を書くとき、アニメに影響されたことはあるか。

武田 1巻はエンタメっぽく書いたけど、2巻以降は純文学っぽい書き方をしてる。その中で、小説では久美子が人の足を見る描写が多い。これは久美子の目線が下を向いていたから。この描写は徐々に減っていくけれど、これは久美子が前を向いたから。そういうのはアニメの影響かもしれない。

小川 アニメも逆にそれを受けて作ってたりしてますよ。久美子の主観で物語の転換点を作っていたりするのは原作の影響だと思う。

石原 今までの作品作りは原作をもらって、それで作ってたことが多い。でもこの作品は同時進行だった、というのもある。

―後編の注目ポイントは。

武田 文化祭ですね。アニメの文化祭、かわいくて好きです。

小川 演奏ですね。劇場でしか感じられない音響を感じてほしい。

石原 (唐突に窓からこっそり見る覗き見るジェスチャー)。(奏の)窓ひょっこりですね。『誓いのフィナーレ』とリンクしてる。個人的に好きなシーンです。ほかにも今までのユーフォの思い出が詰まった場面が多いです。

 

以上。

ポニーキャニオンのプロデューサーさん、面白いパス出しててグッジョブでした。

―『届けたいメロディ』を意識させるシーンもあったが。

小川 特別踏襲しようという意識的にはなかった。OPのところはこうだよなっていうイメージがあった。終わり方はすごく悩んだ。そういう時、テーマが大事。「紡ぐ」がどうあるべきかというのを考えてああいう終わり方にした。

ここはちょっと意外でしたね。もともと踏襲する意図がないとああはならないと思ってましたが。

締めの挨拶で石原さんが「今年で60歳。ユーフォが始まったころは40代だった」って話をしていて、なんだか勝手に感慨深くなったりしました。よくぞここまで作ってくれました。そして石原さん、いつまでもお元気で…!

 

*1:冒頭、幼少期の真由がユーフォと出会った場面は『届けたいメロディ』で描かれた幼少期のあすかを彷彿とさせたり、ラストの「響け!ユーフォニアム」を吹いて笑いあう奏と久美子が『届けたいメロディ』ラストカットのあすかと久美子と同じだったり。

山村卓也さんの「窓」の演出。

ここ最近、山村卓也さんの演出回は「窓」の演出が素晴らしいです。

窓を使った演出は特段珍しいものではなく、むしろ定番とまで言えるかもしれません。ただ、山村さんの演出回は窓のそばにある感情の描き方が素晴らしく、また、印象に残るものが多かったです。

「面影」としての窓。

山村さんが演出された『ツルネ -つながりの一射-』12話、『響け!ユーフォニアム3』4話、『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』8話は、いずれも亡き人物の面影を窓に仮託する演出がありました。

『ツルネ -つながりの一射-』12話では、湊の亡き母の面影に触れるような窓がありました。

階段を上がってすぐの廊下。母が好きだった弓道を志し、練習を繰り返しているうちにできた床の跡。その目の前にあったのは、小さな窓でした。自室の大きな窓ではなく、廊下の小さな窓によって演出しているのがとてもよかったです。母との繋がりに姿形はなく、窓の小ささが繋がりの限界にも見えますが、差し込む光の力強さやまぶしさが、形には残らない絆の強さを想起させてくれます。

湊を見つめる父の後ろ姿もグッときました。湊の成長を通して妻の面影を感じる風景。その奥には強い光が注ぐ窓がある。湊の成長、母(妻)の面影、家族の繋がり。そのすべてを照らす、小さな窓からの光。シリーズを通して描いてきた「繋がり」の演出のひとつとして、原点の面影へと繋ぐ「窓」の演出。とても心に刺さりました。

『響け!ユーフォニアム3』4話においても、求の亡き姉との記憶の中に窓がありました。

思い出の景色として、光差す窓際の風景を印象付けたうえで、淡いコントラストによる寂寥感の滲ませ方が見事です。

 

久美子に過去を打ち明けることで前を向き始めた求。閉じ込めていた思い出の景色から、埃を払ったかのように色味を取り戻す窓の景色。懐かしさと暖かさを感じる光の柔らかさが印象的です。その一方で、空間の広さが切ない感情を残しているのも素晴らしいです。そこにある光や空間が、求が姉を思い出すときの心象風景にもなっていて、面影を思い出すときの求の感情に寄り添う演出でした。

姉との思い出の風景として描かれるのが窓際の風景だけ、というのもまた良かったです。姉とは他にもいろいろな思い出があると思うんですが、求の中に強烈に残った風景として窓と椅子、そして差し込む光があった…というような、求の主観的な感情に迫った演出として機能していました。

先日放送された『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』8話では、亡き兄・清六の在りし日の面影を窓から注ぐ光によって叙情的に映し出していました。

書籍の前に座り込み、熱心に目を這わす清六。その場に熱意を宿した清六を描くうえで、小さな窓の向こうの光が時間経過演出に一役買っています。そしてそんな清六の姿を映した後に映される、だれもいなくなった窓からの光。

単なる窓に縁どられた陽光ですが、「清六が長い時間を過ごした場所」という伏線を敷くことで、居なくなった清六を想起させる純朴な寂しさがありました。前回も取り上げましたが、『二十世紀電氣目録 - ユーレカ・エヴリカ-』には美術背景による切り札的演出があります。しかし、ここではインパクトのある技を使わず、窓でできた影とオレンジ色の空間を映すだけ。だからこそ優しく溢れる寂しさ。山村さんの演出の巧さを感じました。

偶然かどうかはわかりませんが、ここ最近の山村さん演出回は「近親者の死」にスポットがあたることが多いです。それぞれの人物にとって強烈な出来事ですが、山村さんはカメラを通して、その面影を優しく映し出していました。
「悲しみ」よりも「寂しさ」にフォーカスするような面影の演出。その肝となるのが、「窓」の演出。「窓のこちらと向こう側」のような別れや死を意識する境界線的な演出だけではなく、注ぎ込む光によって亡き人の面影や繋がりを描いているところに、私は優しさを感じました。

私の好きな山村さんの「窓」演出。

今回「窓」と「近親者の死」っていう共通項があったので取り上げてみたんですが、以前から山村さんの窓の演出は印象的なものがたくさんありました。

例えば『響け!ユーフォニアム2』10話。Aパートラスト、家を出ていく姉のことを想いながら、久美子が涙するシーン。

電車の窓から眺めるいつもの景色。ぼんやり見つめながら考える姉との思い出と、変わる今。ありふれた景色の中でふと思い出す大切な記憶…というシチュエーションの作り方が、まず心に刺さりました。
久美子へ窓から注ぐ光がスポットライトのようになっていて、久美子だけが持つ、かけがえのない感情を照らし出しているような構図が本当に素敵でした。

Aパートラストカットを車窓越しに映る太陽で締めているのも好きなカットのひとつです。当然のように自分を見守ってくれていた存在に、改めて気づいた久美子と重ねる演出。窓の汚れに少し霞んだ景色の説得力。美しい風景ではないからこそ、心にスッと入ってくるような窓の演出でした。

面白いな、と思ったのは『響け!ユーフォニアム』10話、『響け!ユーフォニアム3』7話。


『響け!ユーフォニアム』10話の晴香が自分を鼓舞するシーンは、窓からあすかと香織を見下ろす構図になっていました。自由奔放な副部長とソロパートに集中する友人を見て、少し離れたところから、普段こぼさない本音を落とす窓の演出。

一方『響け!ユーフォニアム3』7話。夏紀が差し入れしたアイスを後でこっそり持っていく奏と、それを見下ろすユーフォ先輩コンビ。少し離れたところから、普段夏紀の前では見せない奏の本音を垣間見る窓の演出。同じ構図で、「普段見せない素顔や本音」という共通点を窓という舞台装置が強調させるような演出となっていました。
ちなみにこのシーンは、シナリオでは「校舎裏」という設定でした*1。1期10話と同じ部屋となっているのは脚本段階ではなく、コンテ段階の可能性が高いです。山村さんのセルフオマージュ的窓演出。


 

少し横道にそれましたが、最初にも書いたとおり、「窓」の演出は山村さん独自の演出ではありません。窓から光が差し込む、という構図もたくさんあると思います。

しかし、山村さんの窓の演出にある、心の奥底にある感情を掬いあげるような優しさは特筆すべきものだと思います。

そしてここ最近の演出には、心の奥を小さく揺さぶるような「優しい寂しさ」があるような気がしています。

*1:「『響け!ユーフォニアム』シリーズ 公式シナリオブック 下巻」223頁。

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』、美術背景の「ボカし」表現。

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』の美術背景は、放送開始前より注目ポイントの一つとして公式HPでも触れられていました。
和の世界と煙が入り混じるスチームパンク。世界観の作りこみが見事で、背景に目を惹くカットもたくさんあります。

しかし、本作の美術背景の素晴らしいところは単なる作りこみだけにとどまらず、あえて「ボカし」の表現を取り入れているところだと感じました。

今回はそんな「ボカし」の表現をいくつかピックアップしてみたいと思います。

輪郭がボヤけた背景たち。

「印象派絵画を思わせる挑戦的な美術背景」。
公式サイトのトップページにある本作の宣伝文句ですが、実際に描かれている背景においても、印象派のような光の移ろいや映り込みが多く見られます。輪郭がボヤけた、やわらかなアウトラインも特徴的です。

また、それぞれの境界線があいまいであることが、それぞれの存在感にも繋がっているように感じます。
例えば木造の住宅、土と草の地面。それぞれは独立した存在ですが、実際の生活空間では、必ずしも明確に区切られているわけではありません。コンクリートやアスファルトに縁取られた現代の都市とは異なり、景色として見れば、それぞれの境界線はもっと曖昧なものだったはずです。一体となっている景色の存在感。それを際立たせる「境界線のあいまいさ」が、本作にはあると思います。
ただ、それだけだと「if」のない、ただの近代日本です。本作ではそこに蒸気管や蒸気までも輪郭をボカシて溶け込ませている。そこに、この作品ならではの世界観の「語り」がありました。

日本でありながら実在の日本とは違い、近代という時代でありながら少し違う。写実的に描いてしまうと露骨に感じてしまう「if」の部分を、あえて「ボカし」で包みこむ。その手段として「印象派絵画を思わせる」という言葉を選んでいるのではないかと感じました。

レンズ効果を意識した「ボカし」。

建物や草木が同じ場所にあるように、景色と人物もまた、同じ世界に存在します。
アニメーションでは、背景とキャラクターは別々の工程で作られるため、両者を同じ質感で画面に馴染ませるには限界があるように感じます。しかし本作では、この二つを「ボカし」によって繋ぎ、同じ世界に存在するものとして見せているのが素晴らしいです。

1話、稲子初登場のカットがまず印象的でした。
ここでは奥の背景と右前髪を同じレベルでボカし、徐々に手前の顔にフォーカスを当てていくような描写になっています。画面全体から神聖な空気感を強く感じました。
手前側の手は撮影処理かと思いますが、稲子の首筋の滲みのようなボカしや、背景のやや黒みがかった描写は、美術で描いているようにも見えます。
レンズ感という意味では被写界深度の浅い画面演出。京アニの十八番の演出であり、撮影処理の質感も申し分ないはずです。そこをさらにこだわり、新しい被写界深度の浅い画面演出を見せてくれました。
稲子の「信じる」が初めて溢れ出る、とても大切な瞬間への熱意を感じました。*1

1クール後半に入ってからは、セル描きをピン送りでBOOKのように「ボカす」演出がありました。


単なる視線誘導としてのピン送りにとどまらず、背景と人物が同じ世界にいるということに、強い説得力を持たせています。
この演出もパッと見て美術セクションがボカしの絵を作っているのかと思ったのですが、CGWORLDの本作の特集ページにこんな事が書いてありました。

なお、制作が進む中で、撮影セクションで油彩風ボケ処理が開発され、背景セクションの描画によるボケと併用するかたちになっていったとのこと*2。

上記ピン送りは、7,8話のもの。もしかしたらこのボカしは「制作が進む中で」撮影の創意工夫によって生まれたものなのかもしれませんね。

ボヤケた世界から見えるもの。

ここまで「ボカし」について見てきましたが、こうして並べてみると、本作における「ボカし」は、単に画面を美しく見せるための表現ではないように思えてきます。
登場人物の心象風景に寄り添ったり、「世界の雰囲気」を縁取ったり。さらに、輪郭を曖昧にすることで、そこに漂う感情そのものをすくい上げるような働きもしているのではないでしょうか。

ぼかしは、曖昧さを強調する表現でもあります。
清六を取り巻くそれぞれの感情や因縁は、はっきりとした輪郭を持たないまま、しかし確かにそこに存在しています。ひとつの感情だけをくっきりと描くのではなく、ぼかすことで、その場に漂っているさまざまな感情を、画面全体から広くすくい上げる。
本作の「ボカし」には、そんな働きもあるように感じます。

以前取り上げた「煙霧の演出」とも親和性が高い表現です。時として曖昧に歪んだ輪郭は、不気味さや不安を煽ります。モヤのかかった世界の演出との相乗効果という意味でも、ボカしの表現は存在感がありました。

 

「印象派絵画を思わせる」という宣伝文句は、ともすれば画面の美しさをアピールする言葉にも聞こえます。もちろん、本作の背景が美しいことは間違いありません。
ただ、私がこの「印象派絵画風」の画面から強く感じるのは、むしろ煙や土の匂いです。美しさというよりも、そこに漂っている空気や湿気、土ぼこりまで含めた、「世界の匂い」を伝えるための表現なのではないか。そんなふうに強く感じました。

美術監督の高山さんは、本作について「印象派の一瞬を捉えたようなイメージをつくれたら」と語っています。
その言葉を、私は単に「美しい一瞬を描きたい」という意味だけではなく、その一瞬に漂っている空気や感情まで含めて捉えたいということなのではないか、と受け取りました。

輪郭をぼかすことで、そこにあるものを見えにくくする。けれど、その代わりに、輪郭を持たないものまで画面の中に浮かび上がってくる。

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』の「ボカし」からは、この世界に漂うさまざまな感情や空気、そして「匂い」を感じさせてくれています。

*1:5話でも同様の被写界深度の浅い画面演出がありました。こちらもケイトの心情に深く寄り添う大事なカット。


*2:CGWORLD.JP「アニメ『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』京都アニメーションが描く印象派絵画のような画づくりとは〜No.1/美術篇」
https://cgworld.jp/article/2607animecg-denkimokuroku01.html

『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』1~6話を見て-感想メモ-

現在放送中の『二十世紀電氣目録-ユーレカ・エヴリカ-』も、早くも第6話まで放送されました。
ここまで見てきた中で、気になった部分、そして書き留めておきたい部分をいくつか。

原作改変の「悪し」の部分

放送開始から間もない頃、原作者の方が、原作とアニメで大きく内容が異なることをネガティブに示唆するポストをされていました。

明治時代に即した世界から蒸気を強調する世界への改変、喜八と稲子の逃避行という原作の物語からの改変、シンプルな悪役に徹する洋輔からの改変…作品の根幹部分が大きく変わったわけですが、媒体が文章から映像へ変わる以上、どちらが良くてどちらが悪い、とは一概に言えないな、というのが個人的な感想です。

ただ、現時点で「悪し」と感じているのは、原作の大筋そのものを変えてしまったことです。
洋輔との婚約や父からの冷たい言葉によって、本気で「死にたい」と感じた稲子の失望感。その感情へ真摯に手を伸ばす喜八。それぞれの異なる価値観を語りつつ、逃避行の中で距離が近づいていく。真っすぐで誠実なストーリーラインの中で登場人物の心の内が明かされていく展開は、文化や価値観が移り変わる世界の中で、衝突から相互理解への軌跡が見事に描かれていました。

一方、アニメではここまで、電気を使った発明によって登場人物の未来を照らす物語が続いています。その物語の中で主要な登場人物が本音や心の内を明かす場面はあれど、各エピソードのゲストキャラの人物にそのスポットライトを奪われている印象です。6話は番外編のような色合いでしたし、物語の本筋から回り道しているエピソードが多いと感じました。

浦畑達彦さんがシリーズ構成を担当していることもあり、浦畑さんが各話脚本で参加していた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のような、1話完結のエピソードを積み重ねていく構成が頭をよぎりました。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』ではさまざまな人物と出会うことで、ヴァイオレットがこれまで知らなかった感情を一つずつ知っていく、という心の動きがありました。

一方で本作では、ここまでのところ、喜八や稲子自身に変化を与える物語が少なく、価値観や感情を掘り下げる場面も乏しいように映ります。

原作がロードムービー的な物語なので、映像化が難しく、世界観を語るには適していなかったというのもあると思いますが、登場人物の感情表現や感情の掬い取り方は、今のところ満足のいくものではないです。

コメディの表現

原作とも違い、いままでの京アニ作品とも違う要素として、コメディの表現があります。

誇張した表情、デフォルメ、漫画的な実線の密度、線の揺らぎ。個人的には非常に面白い試みだと思いました。この表現について太田監督が触れるとき「真剣に生きた結果の表情」と言及しており、明度の低い背景とのギャップによって、更に登場人物の感情が強調されているように感じます。

この表現は特に洋輔の感情描写で用いられることが多く、嫌味のある敵役である洋輔に愛嬌を加えるという意味でも、面白いアイデアだと思います。

一方で、シリアスな感情を見せる場面では、少し危ない表現のようにも見えました。
先にも触れたとおり、原作では婚約者が洋輔であることというのは、稲子にとって絶対的に拒絶したい出来事です。婚約者となったことが直接的な原因ではありませんが、その過程で父親から叱責され、死を望む出来事にも繋がっています。

アニメでは婚約者ができたことに対して稲子の反応は鈍く、シチュエーションによってはコメディチックな表現にもなります。5話では少女漫画的な瞳の表現で他人の恋愛に興味を惹かれる姿もありました。

テレビシリーズという長い時間軸の中で、ずっとシリアスなトーンを維持することが難しいことは理解できます。また、今後の展開で「洋輔との婚約」に改めてフォーカスが当たる可能性もあるでしょう。
だからこそ、そのときに現在のコメディ表現が、物語の展開や人物の感情が持つ重さまで軽くしてしまわないか。そこには少し心配もあります。

演出の主役に据わる「背景美術」

京アニの映像演出はカメラワークやカット割り等の「演出」だけが主役ではありません。時に作画であり、時に撮影であり、いろいろなセクションからの足し算の部分に魅力があると思います。

本作ではその主役の座が「背景美術」にあるのは、画面を見ているとひしひしと伝わってきます。土や草木、川が身近にある一つ前の時代。そしてそこに漂う煙霧。独特な世界観の表現方法は本当に素晴らしいです。

背景と登場人物が並び立つ世界。当然といえばそうなのですが、これができている作品というのはそう多いものではありません。そのうえで独自の世界観を作り上げているところに、太田監督のこだわりを感じました。

 

物語の部分では、原作から大きく形を変えたことで、まだ評価を決めきれない部分もあります。一方で、映像表現については、ここまでの6話だけでも「この作品でしか見られないもの」がかなり見えてきました。コメディの表現も、背景美術の作り込みも、これまでの京アニ作品とは少し違った方向へ踏み出そうとしているように感じます。

原作を知っているからこそ気になる部分はありますが、だからといって原作との違いだけを追いかけてしまうのも、少しもったいないなと感じています。「spoon.2Di vol.136」掲載の太田監督インタビューでは終盤話数の展開に注目を、という発言もありました。

残りの話数で、喜八と稲子の物語がどこへ向かうのか。そして、この独特な世界を太田稔監督がどのように描き切るのか。

引き続き、楽しみに見ていきたいと思います。