「私たちは、いま!!特別展」(アニメガ×ソフマップ 仙台駅前店 2023.6.1~6.30)に行ってきました。

展示数は23点。ちょっと少なめでしたが、ちょうど行けそうな時間があったので機を逃すまいと行ってきました。

作品と展示数は以下の通り。

  • 『ツルネ -つながりの一射-』(以下ツルネ2期)…13点
  • 『劇場版 Free!-the Final Stroke-』(以下Free最終章)…6点
  • 『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(以下劇場版ヴァイオレット)…4点

ツルネ2期はOPが多めで、門脇さんの作監修正の絵が上手で、とっても良かったです。

門脇さんの作監修正はポージングに関する端書きが多かったように感じました。手鏡を持つポージングだったり、座り方だったり。

永亮が椅子に片膝立てて座っているカットは作監修正で片膝立てるポーズに変えているみたいですね。たしかに、袴着てキチンと座ってると平べったく見えちゃかもしれないです。ポーズも永亮のキャラクター性にも合っててかっこいいポージングです。

ちなみにこのコマはカットされちゃってるので、そういう意味でも貴重です。

もう一つ気になったのは作監修正に書かれた「よろしくです」。端書きと筆跡が違う気がするんですけど、これ門脇さんですかね?サインが3を書いてそのまま9を書くような感じなので、39でミク、門脇未来さん...かと思ったのですが。

ツルネ2期はディザービジュアルの原画が見れたのも嬉しかったです。やっぱ門脇さんのポージングの描き方が好きなんですよね。この三人の立ち方、座り方もすごくかっこいいです。

 

Free最終章も集合カットの作監修正が見応えありましたね。筆圧含め、キメのカットの熱の入り方が素晴らしい。

端書きのラフさにも目が行きます...!岡村さんの字でしょうか。

 

劇場版ヴァイオレットも素晴らしいチョイスの展示でした。

どれも重要なカットである分、端書きにも熱が入ってるのを感じます。一枚目の「抑揚」と「ユレ」を動画で拾って欲しいという端書きとか、ずいぶん手間のかかるお願いだと思うんですが、それに見合うカットではあります。



他にも見どころ多い展示物がありましたし、グッズも多数置いてありました。
仙台って東京から行くと新幹線使って1時間ちょっとで着いちゃうんですね。以前も展示やってましたし、新しい展示があったらまた行きたいです。

 

 

 

『天国大魔境』8話 藤田春香さんのコンテワーク

『天国大魔境』8話は藤田春香さんコンテ回でした。京アニを出てから初のTVシリーズコンテです。

演出処理は別の方なので、どこまでコンテ指示なのかはわからないですが、気になった演出を振り返ってみたいと思います。

演出による「冷たさ」と「暖かさ」

このエピソードでは死への道筋が怪物になることしかない星尾を、人のまま死なせることがマルとキルコの目的地になっていますが、そこには命を絶つという「冷たさ」と、星尾の希望するように最後を迎えさせるという「暖かさ」が同居しています。

演出上でもこの「冷たさ」と「暖かさ」の表現が要所となるところで見られました。
特に「冷たさ」の部分は今までの藤田さん演出においてあまり見られない鋭さがあったように感じました。

原作も読んでいるのですが、このエピソードはコマ割りにも捉われず、アニメ独自の演出が非常に多かったです。

光による境界線

「冷たさ」の演出として如実だったのは、光による境界線です。
本話数では演出における境界線が度々でてきますが、特に陽の光による直線影の存在感が強く、画面内のものを明確に区切る場面と、「区切られたものを渡る」という行為を印象付ける場面で使われていました。

「区切る」意図が顕著だったのは星尾の関連の演出で、空と星尾を区切る演出が多々ありました。

「最後に空が見たい」と訴える星尾ですが、空と星尾は幾つもの境界線によって区切られています。一つ目は星尾が眠る部屋と廊下に出るまでの境界線で、その境界線は空から降り注ぐ陽の光によって作られていました。キリコ達がいとも簡単に踏み込める陽の光の側に、星尾は自分でたどり着けない。「もはや人間には戻れない」ということを突き付けているかのような陽の光が、本来暖かな表現でありながら「冷たさ」の象徴のようになっているのが見事です。

 

マルとキルコ、宇佐美の3人によってようやくたどり着いた空の下でも、星尾がいるのは影の中です。陽の光を浴びることを身体的な事情から避けているのかもしれませんが、空を仰ぐことができても日の下には降り立てないという、明確な境界線のように感じました。これが空と星尾を分かつ二つ目の境界線になっていて、ここを越えられない星尾の待つ先は、このまま死を迎えることなんだ、という冷たい最後通告のような境界線、といったような感触を受けました。

 

冷たさの一方で、光の境界線を越えるという行為が暖かさを感じさせる演出もありました。

終盤で宇佐美がビルの中へ入っていくところでは「陽から陰」へ境界線をまたぎます。これはこのあと宇佐美が自死を図ることの示唆だと思うんですが、それだけだとネガティブな示唆としての演出だと思うんです。ですが、本作の「生まれかわり」を示唆する展開や、星尾が影の中で死んでいったことを考えると、宇佐美を星尾のもとへ導いてあげるような、もしくは二人の間にあった境界線*1を絆すような、そんな「暖かさ」の演出のように感じました。

星尾と宇佐美の最期は拭いようがなく冷たい悲しさがあるのですが、二人を静かに近づけてあげるような、若干の救いを感じる境界線だと思います。

カラスというモチーフ

もう一つ「冷たさ」と「暖かさ」を含んでいた演出としてカラスというモチーフが印象に残りました。

カラスというモチーフは、本エピソードにおいて「死」とマルの存在を意識させるモチーフでした。マルたちが星尾のもとへやってくる冒頭のシーンのさらにその前、このエピソードの1カット目から登場することから、星尾の死を運んでくるマルの存在を意識させていました。

更に印象的に使われていたのは、宇佐美の死を見守るかのようなカラス。
銃声を聞いて宇佐美のもとへやってきたマルは「自分が死をもたらす」と嘆くことになりますが、それを象徴するかのようでした。マル(=カラス)のいるところに死がある、というような、そんなモチーフ演出だったと思います。

いずれも「死を連れてくるマル」という印象付けによって、マルの存在を冷たく突き放す演出だったと思います。「影」という演出とともに、死を連想させるシンボルでもあるカラスを使うという、ストレートなメタファーが厳しくマルを責めているような気もしました。

ただ、このエピソードにおいて「空へ飛び立つ」という行為は、星尾の願いが「空を見る」ということもあって、どこか前向きな印象も受けました。
宇佐美が自死するシーンでは銃声とともにカラスが飛び立つわけですが、いわば現世から解放されたかのようにも感じます。悲哀はあれど救いがある、演出上での「暖かさ」です。

光の境界線とカラスというモチーフには、「空」という共通点があり、どちらも星尾と宇佐美の行き詰った状況の演出として使われていました。
しかし、その状況からの脱出と星尾の「空を見る」という願いを前向きな演出に活かすことで、「悲哀のなかにある小さな救い」を暖かく掬い取っていました。

上述した演出は原作では使われおらず、原作を意識したカット割りもあまりありません。藤田さんのコンテワークによる二つの温度を併せ持つ演出だったのだと思います。

藤田さん演出の「冷たさと暖かさ」を振り返る

藤田さんの演出において、「冷たさと暖かさ」の両方を感じさせるものがいくつかあります。

例えば『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』2話。

終盤のシーンではエリカが自動手記人形としての自信を失いかけている中で、ヴァイオレットの自動手記人形を続けたいという純粋な気持ちに向き合うことで「冷めた感情」に光が差します。
『天国大魔境』8話でも使われた直線影を、ここではシンプルに、肯定的な意味合いで使っていました。雨に濡れたことで冷たい青色がエリカを包んでいますが、そこに降り注ぐような陽の光がエリカに「暖かさ」をもたらす、という意味でも「冷たさと暖かさ」の両方を感じる演出でした。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝- 永遠と自動手記人形 -』ではイザベラとテイラーの過去に「冷たさと暖かさ」がありました。貧しいながらも二人でいられることに喜びを感じている二人の「悲哀のなかにある小さな救い」にスポットがあてられ、「冷たい世界」で握る「暖かな手」の演出が随所にありました。
イザベラとテイラーが握る手はもちろん、女学校で病に伏したイザベラの手を握るヴァイオレットの手は、機械でありながらぬくもりを感じる手としての演出でした。

鳥かごを想起させる女学校や上流社会での生活と、終盤のテイラーから手紙を受け取って空を仰ぐイザベラのシーンは、『天国大魔境』8話でも使われた鳥のモチーフ演出に近いです。

 

直近の藤田さんのお仕事だと、MV『白雪』も「冷たさと暖かさ」の両方を感じるものでしたね。二つの種族(?)が心を通わせる「暖かさ」はあれど、どこか刹那的な関係性を感じさせる表情の「冷たさ」。暖かい笑顔ではなく、悲しみを含んだような複雑な笑みに、シンプルなハッピーエンドにはさせない演出上の「冷たさと暖かさ」を感じさせました。

ただ、今までの藤田さんの「冷たさ」には美しさがありました。「冷たさ」の裏に隠した藤田さんの登場人物へのエールのような、登場人物が立つ世界の美しさ、と言うのが正しいでしょうか。構図や背景、撮影処理…どこかにその美しさがあったわけですが、『天国大魔境』8話は「冷たさ」を映すカットは容赦なく冷たかったです。その後に救いは描けど、境界線の演出なんかは絶望にも近い演出でした。

そういった意味でも、『天国大魔境』8話は今までの藤田さんの演出とは一味違うエピソードだったと思います。

 

『天国大魔境』8話のコンテワークも見事でしたが、次回作は演出処理もやって「藤田春香演出の今」を見られることを期待したいです。

*1:二人が光によって二分されることはありませんが、星尾が伝えた「ありがとう」の上を流れる宇佐美の涙はディスプレイによって分かたれているんですよね。紙に記した言葉であれば涙が滲むのですが、ディプレイではその表面を伝うだけ、というのが二人の境界線のように見えました。

武本康弘さん演出の"振り返る"を振り返る。

"振り返る"芝居って、ぶっちゃけそれだけで絵になります。

有名な『見返り美人図』から始まり、アニメ作品に絞っても、『君の名は。』のラストシーンであるとか、キャッチーなものだと「シャフ度」なんて呼ばれた『化物語』の"振り返る"がありました。

随分前から”振り返る”演出は珍しくなくなっています。ただ、それでも、武本康弘さん演出回の"振り返る"は自分にとって特に魅力的なものが多いのです。

氷菓』1話

まず浮かんでくるのは『氷菓』1話のアバン。
奉太郎が初めて文芸部にやってくるシーンですが、奉太郎に気づいて"振り返る"えるは1コマ作画でその表情の移り変わりを繊細に描写されていました。

二人のボーイミーツガールとしての印象付けもあると思うのですが、それ以上にえるの振り返る仕草と表情の繊細さが印象強いです。

このシーンは奉太郎とえるのカットバックで構成されるのですが、奉太郎を捉えるカメラは第三者の視点であるのに対して、えるを捉えるカメラは奉太郎の主観になっています。えるの瞳に吸い込まれているような奉太郎の表情を客観的に見せる一方で、「奉太郎が釘付けになっているえる」を説得力あるものにしなければいけない。この1コマの"振り返る"は、その時間の濃密さを印象づけるものとして、完璧なエクスキューズとなっていたと思います。

AIR』3話

この話数での"振り返る"は武本さんの「巧さ」が光ります。

学校へ走っていく観鈴のカットですが、途中で転んで、起き上がって"振り返る"。往人に対する観鈴バツの悪さを、観鈴の幼さを込めて演出しているところに武本さんのアイデア力を感じます。加えて、少し高めのカメラ位置もアクセントになってます。

アニメでよく見る「ドジっ子が転ぶ」カットって、転ぶ前と転んだ後を見せるものではなくて、転んだ姿が多くないですか?「転んだ」というポーズを映せば普段とは違ったポージングをとらせることができるし、「ドジっ子」という要素も伝わるからそうするんだと思うんですが。

でも、このカットはその肝になる転んだカットを映していないんですよね。むしろそれを隠すかのようにカメラ位置が高い。その意図としては記号化されたドジっ子ではなくて、観鈴という登場人物を見せたい、ということなんだと思うんです。
「学校へ向かっていく」という生活の中にある芝居と、転んだ後のバツの悪そうな表情を映すことで「ドジっ子」という要素ではなくて、「観鈴の自然な表情」を引き出すことができる。"振り返る"という芝居も、往人から見たように映すことで観鈴の飾らない表情をシームレスに掬い取るためにあるのだと思います。

こうしたカメラ位置や1カット内の芝居構成に武本さんの「巧さ」を感じずにはいられないです。

『日常』16話

この話数は学校に通い始めたなの宅にゆっこがいきなりやってくるエピソード。
ゆっこが帰り際、自身がロボットであることを隠そうとするなのに対して「なのはなののままでいいんじゃないかな」と伝えるのですが、そのときのゆっこの"振り返る"がとても好きです。

帰り際のシーンまではギャグが続くんですけど、玄関に来た途端に夕景の感傷的な処理やレンズ感のある画面づくりとなるのがまた良いんです。京アニの演出力ギアを一気に入れ替えたような、本領発揮感がすごく良い。

そしてその演出の素材は「ゆっこのシンプルな笑顔」。この笑顔を印象的なものにするための、直前のカットの積み重ねも上手です。この笑顔を見せるまでゆっこの表情は映さず、最後に画面中心にゆっこの笑顔を映す。"振り返る"笑顔をドラマティックにする武本さんの導線の引き方が素晴らしいです。

ゆっこ役の本多真梨子さんの「今日はそれを言いに来たのだった。忘れてたよ」という台詞の優しいトーンも素晴らしく、演出・作画・撮影・声優…どのセクションも「ゆっこの笑顔」の魅力を理解して画面を作っているのだと思います。そしてその魅力の一翼を担うのが、"振り返る"でした。

『日常』25話

『日常』の武本さん回でもう一つ、素晴らしい"振り返る"がありました。
この25話ではみおが失恋(?)してしまうんですけど、それを励まそうと大福に扮したゆっこたちが「一生友達でいてあげる券」をみおに渡します*1。渡されたみおは、受け取った後にゆっこたちを"振り返る"。

正体を隠しているつもりのゆっこたちの気持ちを慮りつつ、感謝の言葉を口にしたくなりつつ、一緒になにか食べに行きたかったな、と思いつつ…そんなみおの名残惜しさを感じさせる絶妙な"振り返る"が本当に素晴らしいです。
その後、再び前を向いて歩き出すみおの目線の残し方にもそんな感情が見え隠れしていて、この"振り返る"でみおの伝えたかった気持ちが凝縮されている気がしました。

小林さんちのメイドラゴン』1話、『氷菓』22話

"振り返る"芝居にはドラマティックな印象がある一方で、感情に含みがある場合にも使われたりします。
小林さんちのメイドラゴン』1話では、急に現れたトールに対して「自分だけのメイド」という要素に惹かれつつも同居を断る小林のシーンで使われていました。本気で小林のもとへやってきたトールの涙を、目だけで"振り返る"小林が印象的です。

トールの本気度に驚きつつ、悲しそうに去っていくトールに声をかけることができない。そんな小林の感情を目だけ"振り返る"という芝居によって表現しているのが上手です。

その後、呼び止められ、振り向いた後のトールの表情を映すわけですが、この小林の"振り返る"とは対比的に振り返ったトールの表情を映すところにテクニックを感じます。

武本さんはこの目だけ"振り返る"を、『氷菓』22話でも使っていました。

こちらは奉太郎が空想上のやり取りを浮かべ、こんな景色になるのだろうか、という含みを込めた"振り返る"でした。ここで完全に振り返ってしまったら奉太郎の「俺が治めると言うのはどうだろう?」という頭の中の言葉が本物になるか、はたまた浮かべる間もなく消えてしまうのか。そんな情景の境界にあるかのような、目だけの"振り返る"だと感じました。

"振り返る"から溢れる登場人物の心の動きと、武本さんの情熱。

武本さんの"振り返る"を振り返ると、その表現の多彩さにまず目を引きました。並べて紹介した『小林さんちのメイドラゴン』1話と『氷菓』22話においても動きの少ない"振り返る"でありながら、目線や瞳の揺れ方や画角…表現の仕方によって受け取るものはまったく異なります。小林と奉太郎はあまり表情や動きに感情が現れない…いわば「近いタイプ」の登場人物ですが、それでも、です。

画一的なものではなく、多彩な表現の根底にあるのは、単に武本さんの「引き出しの多さ」だけではないように感じます。それぞれの人物のその時々の感情を最大限に汲み取ろうとする心意気なくして生み出し得ないと、各作品を見ていて思いました。

前述のとおり、"振り返る"という演出、表現自体は武本さん独自のものではありません。"振り返る"という行為は今まで前を向いていた人物が別の方向を向く転換点でもあり、物語や会話の流れに抑揚をつける芝居として様々なところで目にします。

ただ、それでも、武本さんの"振り返る"は特別魅力的です。登場人物の感情を目一杯乗せた"振り返る"と、その芝居に寄り添った武本さんの特別な情熱を強く感じるから、そう思うのかもしれません。

*1:このシーンはアニメオリジナル。

『劇場版 Free!-the Final Stroke- 公式ファンブック』、『氷菓 公式設定集』を買いました。

買い逃したら手に入らなそうな気がしたので、京アニショップで『劇場版 Free!-the Final Stroke- 公式ファンブック』、『氷菓 公式設定集』を買いました。

京アニ系書籍は無条件で買い!と思っているつもりなのですが、『劇場版 Free!-the Final Stroke- 公式ファンブック』は税込6,600円、『氷菓 公式設定集』は税込4,400円とアニメ系書籍としてはかなり割高で二の足踏みましたね…。

とか言いつつバッチリ予約して買ったので、その感想でも。

 

『劇場版 Free!-the Final Stroke- 公式ファンブック』

総ページ数120ページ。アルバム風なポストカード?特典とか描き下ろし綴じ込みポスターとかもあって装丁が凝ってます。

中身の方はキャラクター紹介から始まり、劇場版のストーリー紹介、コンテ抜粋、そしてキャストインタビュー、スタッフ座談会。全体的ににスタッフコメントが随所にあって、中身的にも満足度は高いです。

コンテ抜粋ページが面白い。

コンテ抜粋は計19ページあるうえ、河浪さんのコメントもあって嬉しいです。
河浪さんのコンテは端書きに愛が溢れてる感じが面白いですね。コンテの端書きって指示書きであったり、カメラ越しにキャラクターを見つめているような心象風景の解説が多いですが、河浪さんはキャラクターをかっこよくしてやってくれ!、みたいな激励が入り混じる端書き。例えば旭のカットだと、河浪さんは「昔やんちゃしてた不良が大人になったみたいなカッコよさで!!」とか書いてたりしてます。美術監督の笠井さんも本誌座談会でこんなことを言ってます。

笠井 『前編』の絵コンテの最初のページに、監督からの注意事項がいろいろ書かれているんですけど、それは大切にしようと気をつけました。「男の子感大切に オシャレに カッコよく(スマートに)」とか(後略)

指示出しとしてはもっと具体的なのが望ましい気がしますが、親目線のような感じの端書きに愛を感じますね。
河浪さんの親目線、というのを特に感じるのはキャラクター紹介ページ。他のスタッフはこのキャラクターのこういうところに気をつけて制作した…みたいな話をしていますが、河浪さんだけ各キャラクターへ語りかけるような、手紙のようなコメントを残していました。

 

コンテに話を戻します。
掲載されていたコンテで河浪さんの演出力を感じたのは、後編で凛が桜の木を見上げるカット。

東コーチから周りに甘えてる、と叱責され飛び出した凛が見つめる桜の木。小学校にあった思い出の桜と重ねてるわけですが、前編のラストシーンで桜の木に背を向けたあとだからこそ、余計に光って見えるのでしょう。都会の光の中でも存在感を放つ桜と、その輝きが自分にとってどれだけ大事かというのを凛が気づくシーンだったわけですが、凛のアップショットのコンテにはこういった端書きがありました。

桜の花びらなし(凛には届いてない)

なるほど、凛にとっては桜が思い出を想起させるとともに、その思い出が完全に届かないものになってしまったのかと、膝を打ちました。桜の美しさの裏側にある、遙と遠ざかってしまった凛の絶望感のコントラストがこのカットにはあったわけですね。
桜の色味や撮影処理も素晴らしくて、都会の建物や光の青さとのコントラストが強く出ている分、桜が幻想的に見えます。端書きを読むと、この桜の嘘みたいな綺麗さの理由がわかったような気がしました。

スタッフ対談も面白い。

京アニスタッフの対談ページも18ページとボリューミー。コンテページと合わせて40ページ近くあると考えると、全体の3分の1は京アニスタッフにクローズアップしてるということになるわけで、ナイスですね。
対談の組み合わせは以下の通り。

  • 河浪監督・佐藤達也さん・松村元気さん
  • 笠井信吾さん・米田侑加さん・高尾一也さん
  • 鵜ノ口穣二さん・篠原睦雄さん・内山周哉さん
  • 冨板紀宏さん・加瀬達規さん・高木美槻さん
  • 岡村公平さん・門脇未来さん


河浪さん・佐藤さん・松村さんの対談では佐藤さんの原画パートにも触れられてます。対談の中で遙に駆け寄るカットを挙げつつ「走りを描くのが好き」と語られていた佐藤さんですが、このカット、改めて見るとホントに上手です。

まず動きの流れの描写が上手。特に真琴の走り作画は真琴の思考がある感じがして良いですね。とにかく急いでやって来て、プールサイドで急減速をする。そのとき背中側に重心を載せるようにして、半身でステップを踏む仕草を入れる。ロケーションを意識した真琴の動きでもあるし、なんとしてもいち早く…という真琴の思考も見えてきます。

更に言うと、このカットにはここまでシリーズを積み重ねてきたからこその個性がありますよね。渚が止まったときの手の広げ方とか、怜の陸上経験者っぽいキレイなフォーム。走り作画の中にキチンとキャラクターの個性を尊重しているところに、アニメーションDoの「王子」たる所以がありますね。

 

その他にも岡村さんが自身の原画パートに触れていたり、メイキング資料も多々添付されている等、スタッフ対談ページはとても素晴らしいです。

6,600円と高めの値段設定ですが、メインスタッフのイラストメッセージもありますし、京アニファンなら是非って感じな内容でした。

氷菓 公式設定集』

最近、過去作品の書籍を出してくれるのがほんと嬉しいです。

ただ、仕方がないにしても設定資料だけが載っている本書はちょっと物足りないですね。たしかに設定資料の網羅性は素晴らしいですし、奉太郎姉のキャラデザイン(もちろん顔も載ってますよ)も載っていて特別感はあるんですが、そのデザインをした西屋さんのコメントや武本監督のインタビューとか、やっぱり読みたかったです。

新たに、というのは無理だとしても、当時発行されたアニメ雑誌でのインタビューとかをまとめてくれたりしてくれても良かったんじゃないかな、と思ったりしました。京アニ出版がやってくれないのはなんとなく察しがついてましたが、他のアニメムック本とかでそういうのを見てしまうと、もうひと工夫してくれ…と思ったりしてしまいます。値段的にもそれくらいやってくれても良いんじゃないかな、と思いますけど…。

西屋さんの私服デザインが良い。

本書を読んでいると西屋さんの私服デザインの良さに目が惹かれますね。
特に私服の緩さ、というか、シルエットの見えない感じはあんまり他作品でもみないような気がしました。

例えば以下の2つとか。

左側画像のえるはフルショットのカットがないので分かりづらいですが、エプロンもスカートもゆるっとした感じとか、プリーツ(っていうんでしょうか)の柔らかい感じとかすごく好きです。

右側画像の山西みどり(一番右の女子)の服もかわいいですよね。体のラインは見えないけど夏ということもあって足元の風通しはいい感じ。個人的にもオーバーサイズの緩めな服が好きなので、この柔らかい感じが結構刺さります。本編ではほとんどでませんが、後ろ姿のシルエットもカバンのゆるい感じとか、柔らかい生地の質感が感じられて良いです。

ED1衣装の設定と端書き。

ED1の衣装設定のページでは端書きにこんな記載がありました。

全体的に線を途切れさせる感じの描き方でお願いします(色トレスで線はつないでください)

これ、今でも同じ手法でやるんだと思うんですが、今やるとすれば更に撮影処理で線にグラデーションつけたりするんじゃないかなと思うんですが、どうでしょう。実線の部分はわりとそのまま画面に出ているのも、今見るとちょっと気になりますね。ここでの線の途切れって柔らかさの表現だと思うんですが、線がそのままな分、まだちょっと硬いように見えます。
『劇場版ツルネ -はじまりの一射-』のスタッフコメンタリーでキャラの内側にグラデーションを入れる撮影処理について言及していましたが、今の京アニ撮影部がこのEDを作るとすると輪郭線はどう処理するのか、内側のグラデーションはどう表現するのか、気になります(意図せず千反田風)。

 

ペラペラめくってても思いますが、西屋さんのキャラめっちゃ良いですね。普通の制服デザインの設定画もコケティッシュな気がします。服の柔らかい感じが伝わってくるからですかね。

西屋さんの絵を見るだけでも全然嬉しいですが、やっぱりプラスアルファが欲しい…そんな本書でした。

 

以上。

2冊と一緒に再販された『特別版 Free!TYM KEYFRAMES&DESIGN WORKS』も買ったんですが、初版のときに買ってました。ショック。
しかもこの本って何故か原画番号とか意図的に消してるんですよね。と、思いきや残してるところもあったりして、意味不明です。

京アニ出版、今後も応援してます。何卒よろしくお願いします。

 

『劇場版ツルネ -はじまりの一射-』の新規カット・スタッフコメンタリーについて。

すでに2期の放送が終わってしまいましたが、『劇場版ツルネ -はじまりの一射-』について。

そんなにたくさん見ているわけではないですが、テレビシリーズを再編集した、いわゆる総集編映画って、最近は再構成にも力入っている印象があります。

本作、『劇場版ツルネ -はじまりの一射-』(劇場版ツルネ)も例に漏れず、単純にテレビシリーズの物語をなぞるものでなく、湊と雅貴の二人の関係性や、二人の過去に視点をおいて作り直している、といった印象を受けました。新規カットもその部分を強化するものとして追加されていたと思います。

新規カットについて

以下、推測ですが新規カット箇所についておおよその再生時間でまとめてみました。
こういうのってカット数とかだと思うんですけど正直実用性がない気がするので、再生時間で書いてみます。

00:00~06:40(湊と雅貴の回想)
06:57~07:06(練習前の更衣室)
08:35~09:28(回想後、練習前の更衣室)
12:14~12:47(中崎弓具店)
13:25~14:10(回想後、中崎弓具店)
18:24~19:24(湊と父の会話、母との思い出、風呂場)
30:55~31:31(雅貴の回想)
37:31~38:14(御札にパワーを入れたあとの神社、涼平の回想)
42:07~42:55(10話の弓道場のシーンのあと、湊のはやけが治りつつあるシーン)
49:22~49:34(雅貴の回想)
52:16~52:52(帰宅した湊)
55:26~55:44(更衣室)
57:11~58:39(練習する風舞と桐崎)
01:01:47~01:02:37(妹尾の試合)
01:28:18~01:28:21(弓を引く湊)
01:33:08~01:35:14(弓を引く雅貴から最後まで)

本編が約100分、うち10分前後が新規カット。
ただ、それ以外にアフレコの取り直しがあり、撮影し直しているカットも多く、画面の印象はテレビシリーズのものとはずいぶん違う印象がありました。個人的に一番変わったな、と思ったのは劇伴の使い方でしたね。テレビシリーズのときはメインテーマを高頻度で使ってましたが、劇場版ツルネでは劇伴抑えめで静謐な空気感が魅力になっていました。

新規カットでは瞳の演出が際立ってました。アップショットのみならずハイライトの揺れによる感情の震え、一方で動きを作らないアップショットで決意の表情。場面によっての演出の選択肢が多く、使い分けがとても上手でした。

 

個人的に一番印象に残ったのは、冒頭で八坂八段が引いた矢を見つめる湊のカット。

湊の心に“突き刺さる“衝撃。一瞬で流れる矢と、動かない瞳のコントラスト。そして世界が輝いたように光るガウス処理。幼い湊の衝撃の演出として絶妙でした。ちなみにこのカットは八坂八段の2射目。1射目はその弦音に魅了され、興奮して声を上げてしまう湊ですが、2射目ではその衝撃をすべて受け止めようとするが如く、静かに見つめる湊、そしてその瞳。眼の前の出来事を全身で感じる湊の描写としても、とても巧いな、と感じました。

スタッフコメンタリーについて

スタッフコメンタリーは4部構成。

1部 山村監督、太田稔さん、秦あずみさん

2部 山村監督、秦あずみさん、落合翔子さん

3部 山村監督、船本孝平さん、山本倫さん

4部 山村監督、太田稔さん、門脇未来さん

 

以下、印象に残ったお話。発言はママでなく要約してます。

  • 山村監督「この作品の成り立ちは、もともと二期の話があって、そのうえで劇場版やりましょうというところから。テレビシリーズは少年の話だったが、二期に向けて青年らしくしていきたいという映像作りを意識した。」

なんというか、めちゃくちゃ合点がいった発言でした。新規カットが瞳に寄った演出が多いあたり、山村監督は2期と同じ感覚で演出をしているな、と感じたので。画面の質感もそうですが、一期の頃と比べて新規カットや二期はかなり演出に寄った、画面重視の作品だと思ったので「少年ではなく青年」というのは画面の質感にも言えることかもしれません。無垢な白めな画面から、地に足ついた落ち着きを感じる画面へ。

  • 山村監督「自転車のシーンは太田さんが気合を入れてやってくれたシーン。」
  • 門脇さん「湊の母が「ツルネよ」と答えるカット。リップシンクを太田さんが丁寧に入れてくれている。」
  • 山村監督「太田さんはここぞというところで丁寧に仕事してくる。リアル志向を今回狙っていたと思うが、リビングで湊が突伏するシーンとか手をつくところとか、かなり太田さんが直してくれてた。」
  • 山村監督「海斗が更衣室に入ってくるカットは太田さんの演出修正じゃないと生まれてこなかった。太田さんは真面目にちょけるのが上手」

新規カットはどれも太田さんが相当手を加えていそうなお話が多々ありました。話の中で、リアル系に寄った芝居作画を目指したという発言もありましたし、芝居作画も含めて「青年の作品」を目指しているのかもしれませんね。
これは個人的な感覚ですが、太田さんが修正を入れた芝居作画は今までの京アニ作画とは少し方向性が違う印象が残りました。タメツメの効いた芝居や芝居の中でアクセントを残す木上さんや石立さんのような作画から、芝居の一連の動きの流れで見せることを意識しているような。ただ一気にシフトしたというよりも、少し味が変わった、というのが近いかもしれません。

例えば海斗が更衣室に入ってくるカットは、海斗の動きと隣にいる二人の芝居が一連の動きの流れの中にある。山村さんも言っているように「ちょけた」作画ですが、表情とともに動きも印象に残る作画になっていました。

太田さんが関わる部分だけ、というわけでなく原画マンの個性の可能性もありますが、芝居作画という部分では太田さんの個性がでている作品なのかもしれません。

  • 船本さん「キャラクターの中に光の処理を更に足している。今までの輪郭に光の反射を当てる処理は線の上に当てている。今回は線の中に、線より下のセルにのみ光を当てている。キャラクターの実線の内側に光が入り込むことによって、そのキャラクターの線が白くにじまない。輪郭をしっかりみせつつ光にもしっかりグラデーションが作れる。」

新規カットや二期を見ていて、画面の立体感やキャラクターの存在感がすごいな、と思ったのはこれが理由かもしれません。
顔の肌にグラデーションがあることでキャラクターの造形自体が立体的に見えますし、それだけで画面から情報量が増えるのかもしれないです。

このカットとかはアウトラインがぼかされつつも光によるグラデーションが肌にかかっているのがわかります。今までだとアウトラインに色や光を載せて画面の質感を作っていたんだと思いますが、「キャラのアウトラインを薄くすることで背景にキャラを載せる」から「キャラのアウトラインはそのままに、グラデーションで背景に載せる」という方向に舵を切った、といったところでしょうか。メリットとして違和感なくキャラクターの存在感が増す、といったような。

二期OPのカットですが、ここの撮影処理とか顕著ですよね。

鼻の影は多分原画マンが描いてそうですけど、そのまわりに薄い影がグラデーションとしてあって、首や耳の影を作りそうな場所にもグラデーションがかかっている。今までのやり方だと耳のアウトラインに光を足すんでしょうけど、このカットでは実線が強く残ってる。光の演出とキャラクターの存在感が打ち消し合わない表現です。

最近、MOVIX京都で船本さんも登壇したスタッフトークがあったみたいですが、ここらへん言及してそうなんですが…どうなんでしょう。撮影処理の前後を比較したOPの一部が上がってますが、ぶっちゃけ見たいのはサビの部分…

 

あとは門脇さんが石立さんをべた褒めしているのが印象的。京アニコメンタリーはあんまり個人の原画パートとか触れませんけど、ツルネ2期のスタッフコメンタリーでも門脇は石立さんのお仕事に触れていました。

 

以上。

山村さんの作品ですが、スタッフコメンタリーでの太田さんと船本さんの手腕が濃く語られてました。

コメンタリーに船本さんが出てくるたびに周りの方が「えぇっ!そんなことやってるの!?」ってなるのが様式美になってきましたね。船本さんは特に山村さんの演出回*1で暴れまわってる印象があります。今後の船本さんの活躍が更に楽しみになるコメンタリーでした。

*1:ヴァイオレット・エヴァーガーデン』7話の山村さん演出回、湖のシーンで船本さんが撮影マシマシにしたことをコメンタリーで話されていました。

『ツルネ -つながりの一射-』4話 「大人たち」のヒント。

3話では弓から距離を置くよう諭された湊、というラストでしたが、4話で湊だけに焦点を絞らなかったのは意外でしたし、それが面白かったです。
「湊と雅貴」や「湊とその他」という構造ではなく、「いつもと違う」感覚に弓道部5人がそれぞれ考える。対立構造を強調したシリアス演出ではなく、問題に対してそれぞれが向き合う姿勢からドラマを作っていました。登場人物が「動かされている」のではなく、「考えている」と思わせるストーリー展開だったな、と感じました。
 
ただ、根底にあったのはやはり「湊と雅貴」だったわけですが、これを「高校生と大人」という関係性を印象付けることで「対立」ではなく「対話」としていました。
「高校生と大人」が関わる空間はこの話数だけで7つもありました。
・雅貴
・トミー先生
・古典の先生
・美術の先生
・湊の父
・海斗の姉
・永亮の叔父
 
どれも距離感が異なり、言葉のトーンも異なりますが、一つ共通点がありました。それは「大人」たちが、それぞれがそれぞれの立場やスタンスで「高校生」側にいる登場人物にヒントを出してくれていたということです。
 
古典の先生は単純に授業を湊を注意するだけですが、「周りを考えずに弓を引く湊」を最初に直接叱る「大人」です。関係はあくまでも「古典教師と生徒」であるだけなので、湊がその場で気づきを得るわけではないですが、この後続く「4話の大人たち」の導線を引く役割だったと思います。
美術の先生もセリフは2つしかありませんでしたが、「よく見ろ」という言葉から七緒と涼平が「キレイな射と上手い射」について言葉を交わし始めます。美術の先生の「影にもグラデーションがある」というセリフも面白いですよね。個人的には「キレイな射」、「上手い射」も100%そうではなくて、どこかに「きれい」「上手い」だけではない、それぞれの個性がある、というような意味合いに感じました。
また、涼平が「上手い」と感じた絵を描く七緒の手は黒く汚れているんですよね。「きれい」を作るためにどこかで苦労をしている。これも一つ、美術の先生の言う「影にもグラデーションがある」なのかもしれません。

 
海斗の姉のシーンも面白かったですね。姉弟だからこそ感じ取れる弟の「いつもと違う」をからかいつつ、海斗に気づきを与える。海斗自身は姉からヒントをもらったとは思わないでしょうけど、不器用な海斗にさりげなく寄り添う感じがでていてとてもよかったです。足でズボンを蹴り上げる海斗の芝居も絶妙でした。姉の軽口を交えたおせっかいが、いつも海斗のそばにあるのが手に取るようにわかります。
 

この「大人たち」のヒントにもう一つ共通点があるとするならば、「ヒントの出し方の上手さ」なのかもしれないですね。
練習の時に湊が木の弓を引くことを指示されるシーンなんかは納得のいかない湊に寄ってもいいような気がしますが、シリアスにしすぎずギャグチックな空気。ここも絶妙でした。
 
一方で「高校生と高校生」という関係性はネガティブな感情を剥き出しにしていたのが印象的でした。
特に七緒と海斗の駅のシーンでは顕著でしたね。
 
このシーンまででも七緒は海斗に「考えを吐き出せ」と言い続けていましたが、海斗には海斗なりのプライドがあって、七緒は上手く海斗の心情をほだすことができません。ここでいうなれば「ヒントの出し方がヘタ」な言葉なのかもしれません。ただ、そこまで言わないとわかってくれない海斗を知っているからこそのやむを得ない「ヘタ」なのかもしれませんが、結果的には「大人と高校生」の関係性の映し方は差異がありました。
 
ただ、「高校生と大人」、「高校生と高校生」いずれの関係性にも言えることは、相手への攻撃ではなく、あくまで「問題の解決」のための関係性であること、でしょうか。
今話数の物語はヘタをすると湊が雅貴の指導や人格批判へと発展したり、海斗と七緒の傷つけあいに繋がったりすると思うんです。そっちのほうが物語のフックとしては作りやすいんだと思うんですけど、あくまでここでの障害は「弓を引く時の不協和音」なんだ、と主柱を動かさない作品のスタンスが素晴らしかったです。


ラストの湊と雅貴のシーンは「大人と高校生」を対照的に映す象徴的なシーンでした。「見返してやる」という直接的な言葉の子供っぽさと、答えを提示しない抽象的な雅貴の言葉。「大人」からは答えを出さないからこそ、「高校生」はその答えを求めて前に進んでいこうとする。その答えを求める姿が、登場人物が「動かされている」ではなく「考えている」と思わせてくれるのかもしれません。

そんな「大人たちの言葉」に振り回されつつ進んでいく湊の道は、緩やかな蛇行を描いている。でも、前へと進む原動力にもなっている。
このラストカットがこの話数をすごく的確に表現しているように感じました。

 

『ツルネ -つながりの一射-』2話、3話 湊の瞳の演出

山村さんの演出となると気になってしまうのが瞳の演出…という個人的な先入観?もあって、やっぱり『ツルネ -つながりの一射-』(以下、2期)の1話に続き、2,3話も瞳の演出に目が行ってしまいました。
ただ、2期1~3話もそうですし、オープニングのサビ部分のファーストカットもそうですけど、大事なところには必ず湊の瞳に意識を寄せる演出がありました。
今回はそんな湊の瞳が2話から3話でどう変わったのか、みたいなところに注目してみたいと思います。

物語に関して、2話では湊というよりも、風舞高校弓道部の他の登場人物や愁にスポットが当たる時間が長かったです。特に、1期ではなかなか描けなかった湊と静弥以外の登場人物のバックボーンについて触れていました。涼平で言えば、短いシーンでしたが姉との関係性が触れられ、その後に愁の妹・沙絵と親しくなる。海斗は中学校の頃の同級生との記憶、そして桐先高校弓道部は悠を中心としてドラマが作られていました。また、ラストには辻峰高校弓道部の面々が湊の前に登場しました。

物語の幅が一気に拡がっていくような展開でしたが、それは湊にとっても同じで、愁の弦音を聞くことが増え、そのうえ中学の頃の先輩である永亮も現れた状況は自身を振り返る時間を減らし、周りを意識する時間が増えることに繋がります。それによって3話では本調子ではなくなってしまったわけですが、演出としてそれをどう表現するか。2,3話ともにコンテを担当している山村さんは、それを音でもなく、弓を引く動きでもなく、湊の瞳に注力されていました。

2話の湊は1話の心情をそのままに、自身と的の間に挟むものはなく、弓を引く時にもモノローグがなく澄み切った印象がありました。静寂の中で見つめるのは正しく的一点。瞳のアップショットでは、瞳の中に的を映り込ませることでその心情を演出していました。このシーンでは手の内を緩めてしまったことにより的を外してしまいますが、その理由は他者との関係でも的と湊の間に障害があったわけでもなく、弓を引き続けることの難しさの表現でした。1話にも空を映り込ませる瞳の演出がありましたが、弓への純度は今も高いままであることが、ブレない瞳に現れているように感じます。

 

しかし、3話では湊の瞳にブレが生じます。
このブレの演出は愁が弓を引く姿を見るときにありました(3話では2回ブレ演出があり、いずれも愁の射を見つめる湊)。1,2話ではブレのない、まっすぐ見つめる湊の姿が印象的でしたが、そこにブレが生じてきたような感覚。瞳のブレ演出は他の作品だとポジティブな意味での「集中」だったり「興奮」、「視線の先への熱量」として使われたりもしますが、ブレのない湊が描かれたことを前提とすると、ここでは「ゆらぎ」の印象が強かったです。

一方で、永亮の射を見つめる湊には瞳のブレがありません。ただ、静弥から「魅入られると、良いことないよ」と釘を刺されます。愁と永亮の射に差異を作るための「ブレなし」演出だと思うのですが、静弥の言葉でさりげなくネガティブな印象を残しています。また、他のカットと比べるとハイライトの明度が若干低いんですよね。どこまで意図しているかはわかりませんが、永亮の射に魅入ってしまうことの恐ろしさ、みたいなものが感じるカットでもありました。

そして辻峰高校戦、愁や永亮の射が頭に残り続け、「ゆらぎ」の中にある湊は愁の言う「いつもの調子じゃなかった」射となってしまいます。的に当てるだけでいいのか、「落ち」としての役割がまっとうされているのか…愁や永亮の「落ち」の姿がしこりとなって消えない湊に、2話までの「純度」はなくなってしまいました。

この「純度」という演出に「ブレ」を使うのが上手だな、と感じます。物語としてブレを作るならば的を外せば良いし、良い射でないことを演出するならば音や矢の動きで誇張すれば良いわけですが、「動きの結果」で表現する演出でなく、そこに至るまでの「心の過程」の演出への注力は、登場人物に寄り添っていないと浮かんでこない演出だと感じました。

弓道への純度が濁りつつある湊。4話以降ではそれをどう演出するのか、そしてどのような演出をもって、再びそれを取り戻すのか。おそらく4話以降は別の演出さんが演出されるのかと思いますが、そこの差異も含めて、「湊の瞳」にはますます注目したくなりました。